言葉のこだわりについて



人には誰も、「好きな言葉」と「嫌いな言葉」があると思います。
その、「好き」「嫌い」…は、「素直に受け取れる」と「素直に受け取れない」に、言葉を置き換えてもいいでしょう。


しかし「言葉」そのものは、本来ニュートラルなものです。
したがって、ある言葉が「好き」あるいは「嫌い」である場合、それは、その人の人生の記憶の反映なのであって、着目すべきはその点だと思います。
つまり、「好き・嫌い」をもたらす要因は、「言葉」自体にはなく、それを「どう受け取るか」という心の状態にある…ということです。


「話の合う間柄」…というのがあります。
これは結局、お互いの「言葉」の定義づけ、認識が似ている間柄なんだと思います。
たとえ同じ「言葉」を使っていても、その「言葉」に対する認識が大きく違う場合、話はまったく噛み合わなくなってしまいます。
逆に、たとえ意見に食い違いがあっても、使用する「言葉」への認識が共通している者同士は、充分に意義ある話し合いを続けることが可能です。


・・・ちょっと今日は理屈っぽい私ですが…(~~;)


私にも、「嫌いな言葉」「苦手な言葉」「素直に受け取れない言葉」が、しっかりあります。
例を挙げるならば・・・

    • ふれあい

そう、この誰もが嫌うはずのなさそうな、「ふれあい」という言葉が、どうも私は子供の頃から苦手です。
したがって、「ふれあい広場」「ふれあいの街」「ふれあい給食」「ふれあい週間」などなどの名称や造語に対して、いつも「けっ、センス悪っ」と思ってしまいます。
その一方で私は長年、人と心でふれあえる関係を結びたくて、それをただひたすら追い求めてきました。


おそらく、私は「ふれあい」という言葉が、本当は嫌いでもなんでもないのです。
本質的に、気になって仕方のない言葉なんです。
よく考えてみると、気に入らないのは、この言葉の「使われ方」なんですね。
「ふれあい」「ふれあい」って、いかにも安っぽく、言葉の雰囲気だけを利用した命名といい、そこにあまり疑問も感じない多くの人々の感性といい、どうも気に入らないんです。
そして結果、本来は罪のない言葉そのものに対して、不当な嫌悪感(苦笑)を抱くようになってしまったわけです。


こうした憂き目にあっている「言葉」は、世間一般にいろいろあると思います。
例えば、

    • 宗教
    • 信仰

などなどなど・・・


私自身は、長年キリスト教との葛藤がありましたから、上記の言葉群に対しては、好悪併せ持つ部分があります。
しかし、生まれてこのかた神や宗教とは無縁で過ごしてきた人にとっては、あのオウム真理教に代表されるカルト教団がらみの事件への記憶があまりにも強いと思われますから、神や宗教という言葉から連想されるものも、こうしたトンデモ世界かもしれません。


私は今「スピリチュアリズム」という、「神」という「言葉」で便宜上呼ばれるものが「創った」とされている霊的真理の法則を学ぶ、一種の「信仰」を持っているわけですが、こうした事実を語るにも、「言葉」には随分気を遣います。
(上のように述べても、どうも私自身の中で、「神」も「信仰」も、かなり抵抗感のある言葉であることは事実なんですよね・・・。しかし、これ以外の言葉を使用しようとすると、結局まだるっこしい表現にしかなりません。ですから、ええーい!と割り切って、「神」「信仰」という言葉を使っています。)


「言葉」とは、始めにも書いたように、ニュートラルなもので、いってみれば「記号」なんです。
しかし、その記号も、使う人それぞれの人生の「記憶」や「知識」が反映される中で、その人独自の意味を持った「言葉」に形成されています。
そのことを意識せずに使うと、そこからさまざまな誤解や憶測が生まれていきます。


しみじみ、「言葉」の奥の深さ、多様性を思い、自分ひとりの感覚だけで捉えないように注意しなければいけないな・・・と思いますし、一方では、「あ〜面倒臭い」という気分にもなります。
まぁ、これも地上世界の、私たちに与えられた課題の一つなんでしょうね(^^)


    (文責:ゆう)