スピリチュアリズムの意義



2005/1/27のガーデナーさん(gardenhealerさん)のコメントへの返信を書いたのですが、とても長くなってしまったので、今日の日記に代えさせていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/cerefica/20050127#c


ガーデナーさん、おはようございます^^
(ずっと考えておりましたので返信遅くなりました^^;)


スピリチュアリズムでは、よく「時期が来た人」に霊的真理を伝えていくことが重要と言われております。
しかし、「スピリチュアリズムは一部の人だけを救うものなのか?」「スピリチュアリズム選民思想なのか?」というように誤解されることが多々ありますが、その誤解をここで解いてみたいと思います。


まず、私たち霊にとって本当の幸せとは何でしょうか? それは、霊的な親である神に近づくことです。つまり、霊的な成長(魂の成長)にほかなりません。
そして、ここ地上界は、いろいろな霊格の人間が同じ場所で生きているということ(霊界では同じ霊格の者どうしが集まっている)、毎日食事をしなければ生きていけないということ、というとても霊にとっては過酷な条件なのですが、その過酷さゆえに、霊的な成長を促進させる為の試練場としての意義が深いのです。


私たちは、(新しく地上界に生まれた霊は除いて)霊界から地上界に生まれる時には、その事を充分承知して生まれてきたはずなのですが、今ではその事を忘れてしまっております。
(一部の例外はありますが)霊的摂理に沿わない人生を送ってしまってます。


霊界の霊たちは、そのような地上人をただ傍観しているわけではありません。何とか救おうと努力しております。一部の人だけではなく、全ての人をです。全ての人に救われるチャンスはあるのです。しかし、救われない人とそうでない人が存在するのは、どうしてなのでしょうか?


それは「天は自ら助くる者を助く」という有名な言葉がありますが、霊的摂理においてもまさにそのことが言えるからです。
自分で自分を救わなければ、真に霊的な救いは得られないのです。


霊界では霊的真理を伝えることまでは助けることができますが、その霊的真理を受け取ったら後は、受け取った人の責任になるのです。


そして全ての人間が霊的摂理を受け取って、即それに沿って実践するかというと、そういうわけではありません。
まず、その霊的摂理を確かだと感じるための霊的センスが必要になります。そしてそれを確かだと感じたとしても、それを実践するかどうかはその人の自由意志に委ねられているからです。


霊的摂理を知ったからといって、それを実践しなければいけないというものではありません。人は自由意志が最大限尊重されなければなりませんので、それを実践するかどうかはその人の自由なのです。


ここで、「スピリチュアリズムは一部の人だけを救うものなのか?」「スピリチュアリズム選民思想なのか?」という誤解は解けたでしょう。



スピリチュアリズムでは、全ての人を救おうとしております。しかし、霊的摂理を知ったとしても受け入れない、もしくは実践しようとしない人に伝えても結局無駄に終わってしまいます。
そこで、仕方なく、「時期が来た人」(霊的真理を受け入れられる人)から順々に伝えていこうということなのです。
また、選民思想でないのも明白でしょう。言い方を替えれば、地球上の全ての人が選民なのです。


そして、霊的真理の伝道にあたってはそれを踏まえつつ、伝道することになります。「軽くドアを叩く」という表現が、伝道の方法としてまさに的を射た表現です。
霊的なものに興味を持っている人がいたら、霊的知識をちょこっと伝えてみる。そして脈があるようだったら、本格的に霊的真理を伝えます。脈がないようだったら止めます。霊的真理を押し付けてはいけないからです。


さて、霊能者やヒーラーの役割は何でしょうか? 私は、人々の「霊的自立」への貢献だと思います。


ヒーラーを例にあげますと、今まで他の病院でも治らなかった病気が一瞬で治ることにより、霊的な存在を感じることにより(霊的覚醒)、「霊的自立」につながりやすくなるという事でしょう。
「百聞は一見に如かず」という言葉があります。いくら霊的な知識を学ぼうと得られなかった霊的な存在への実感を得られるという効果があります。


しかし、そのような本来の役割に沿った霊能者やヒーラーがどれだけいるのでしょうか?
相談者に高額の請求をして暴利を貪る者がいます。自分たちの役割を自覚していたら、決してそんな真似はできないでしょう。
(私がすぴこんで見たのは、暴利を貪るヒーラーだけでした。15分で3000円というのは暴利以外の何ものでもないでしょう)
また、邪霊に憑依された人に相談された場合にも、ただ単に憑依霊を除霊・浄霊するだけで基本的な知識を伝えない霊能者もいます。ですから、再び霊能者に相談せざるを得ない状況に陥ってしまいます。
邪霊に憑依されるのは、本人の側に責任があるという事を伝えなければ、そのようになるのは当然のことです。


ここでやっと「霊能者やヒーラーに依存せず、自分の力で努力することが大事」について説明することができます。これは正直、言葉足らずでした。人生の悩みを解決する場として依存するべきではないという意味でした。なぜならば、与えられた試練の意味を自分の頭で考え、解決法をひねり出すところに試練の試練たる意義があるからです。(下記のページを参考にして下さい)
http://www.paperbirch.com/kaleidoscope/kaleido009.html


ですから、霊能者やヒーラーに通うというプロセスを通過する事があるかもしれませんが、いずれは霊的自立をしなければ、本来の「霊的な救い」は得られません。
これは「それがいけない」という意味ではありません。上でも申しましたように人の自由意志は尊重されなければなりません、よって「霊能者やヒーラーに依存する自由」も人にはありますので、それがいけないというわけではありません。ただ、その場合は、本来の「霊的な救い」は得られませんよ、という事です。




>努力をしながらそれらのものを支えにしてる場合は依存とは言わないと思います。


個々のケースを見ないと何ともいえません。依存ともいえる人もいますし、そうでない人もいると思います。





>霊能者、ヒーラーに限らず宗教や霊訓本に依存してるとも言えませんか?


ここまで書けばもうお分かりだと思います。
霊的な救いを得る為の手段として、自分で自分を救うための手段として、宗教や霊訓本への「依存」は構いません。
霊訓には日常生活でのこまごまとした悩みについての答えが載っているわけではなく、悩みを解決するためのヒントしか載っていないからです。
もちろん、霊訓をただ読むだけで、実践をしなければ霊的な救いは得られないことは当然です。


「試練を自分の力で乗り越えていくことが魂の成長につながる」という霊的摂理は、それを知った人が強い人であれ、弱い人で変わるようのない事実です。
弱い人だからその事実を知らなくてよい、というものではないと思います。強い人だって依存する人はするでしょう。


私は、ただ伝えることしかできません。それをどう受け取るかは受け取った人の自由です。また、強い人とか弱い人というように垣根を設けることなく、淡々と伝えていくだけです。




>人間はセレさんのように強い人ばかりだとは思えません。依存などしたことないと言い切れますか?弱い人の方が圧倒的に多い事を忘れないで欲しいです。


「強い人」と評してくれること自体はありがたいのですが、私はとても弱い人間です。自分の弱さに鞭打って何とか日々を過ごしております。(怠惰だし、すぐ挫けてしまいます^^;)
弱い人の方が圧倒的に多いかどうかは知りませんが、少なくとも私が弱い人間なので、人間の弱さを分かってるつもりです。




>依存などしたことないと言い切れますか?


妻も申してますように、私は妻(ゆう)に依存しております^^; こんなことじゃいけないなぁと自立しようと頑張っております。


今回のガーデナーさんの御指摘で気づいたことがあります。それは、私がいかに不勉強だったということです。
霊能者やヒーラーについて知ったかぶりをしていたことです。
それに関しては本当に感謝しております。


最後になりますが、ガーデナーさんはとても立派なヒーラーだと思っております。
これからも、多くの人の救いの手助けになれますよう、頑張って下さいね!!