苦しみの“意味”

1/2の日記『わたしが・棄てた・女』 続き・・・




遠藤周作氏の追い求めていたテーマは「日本人にとってのキリスト教」である…などとよく言われていますが、私は彼を、キリスト教などという特定の「宗教」を越えたところで、常に「なぜ罪もない人が苦しまなければならないのか? なぜ“いい人”や“信仰心のある人”が苦しんでいるのに、神は何も助けてくれないのか?」という問いを発し、その答えを素朴に深く求めていた人なんだ・・・と思っています。


  「なぜ、私はこんなに苦しむのでしょうか?」
  「きっと、その苦しみに“意味”があるからでしょう」
  「では、その“意味”とは、何なのでしょうか?」


この世の中には、“意味”なく苦しんでいる人が、あまりにも多いように見えます。


たとえば、親に虐待され死んでしまう幼児・・・。 
たとえば、独裁者によって虐げられ飢える人々・・・。 
たとえば、道端で生まれ道端で死んでいく貧困しか知らない人々・・・。 
たとえば、爆弾を落とされてあっけなく粉砕される子供たち・・・。


この人たちが、いったい何をしたのでしょうか? 
特に、子供たちは、どんな悪を働いたのでしょうか? なぜ罪もないのに、“意味”もなく死んでいかなければならないのでしょうか?
  「それはさぁ〜、やっぱり“運”が悪かったんじゃないの?」
・・・ということで、片付けてしまっていいのでしょうか?
でも、
  「きっと、その苦しみには“意味”があると思います。」
・・・と言われたところで、誰が納得するでしょうか? 少なくとも、かつて私は納得できませんでした。


シルバーバーチは、こんな風に言っています。

シルバーバーチの霊訓〈5〉 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありがたい体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。
 どうか同情心はこれからも持ち続けて下さい。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。
        『シルバーバーチの霊訓』(8) 潮文社
        トニー・オーツセン編 近藤千雄訳  P145〜146


どうもこの世には、霊的な法則を知り、理解し、受け入れないことには、どうしても出来ないことがあるようです。
それは、「どんな苦しみにも“意味”を見出すこと」であり、「どんな苦しみも“自分が選択して得ているもの”として前向きに受け取る」ということなのです。
自分の人生を、今のこの肉体がある、今このとき限りの数十年たらずのものだと思っていれば、「苦しみ」は、ただただ厄介で辛く恐ろしく、まさに“意味”など見出せない災いでしかありません。
ましてや、この世に生まれてほんの数年ににしかならない子供に、そうした「苦しみ」が襲えばどうでしょうか? 
親に虐待されて死んだ子供の苦しみの、どこに“意味”などあるものでしょうか? 
そんな考え、概念を持つこと事態、あまりにも残酷ではないでしょうか?


しかし・・・しかし、です。


私たちの歩みは、永遠なのです。 
これを信じるか信じないかは、人の自由です。 
私たちには、自由な意志があり、だからこそ永遠のなかで成長していけるのです。 
私たちに強制されるものは何もありません。



私たちは、自分の意志で地上に生まれ肉体と共に生きることを望み、そしてまたいつか、もといた世界に戻っていきます。  
すべては、自分の意志で選び取ったものだということです。 
それは、子供であっても同じでしょう。 
肉体はまだ子供でも、たましいは、ずっと永遠に成長を続ける仲間です。 
永遠の存在です。
(ただし、肉体という“牢獄”にたましいは囚われているため、こうしたたましいの意志を、自分でも忘れてしまっているのが人間・・・だということです。)


前にも書きましたが、私たち夫婦には、定型発達ではない子供がいます。
はじめ私は、「なぜ私に?」・・・と、思っていました。 
でも今は、「この子は、私を選んで来てくれたんだ…」と、ちょっと自慢したいくらいに思ってます。 
「せっかく私を選んでくれたんだから、なんとか私に出来るだけのことはしてあげよう」
「お蔭で私も、普通には経験できないいろんなことが経験できる。ありがとう。」・・・と、思ってます。
なんだか、凄く優等生的でイヤミな発言、タテマエだけの綺麗ごと…に聞こえるかもしれませんが、本当にそう思うんです。 
なぜなら、これは自分をなぐさめるための想像・夢物語や、押し付けられた宗教的概念ではなく、宇宙に存在する法則に則したものだと納得ができるから、心にストンと受け入れられるんです。


この宇宙に存在する法則、霊的な法則、霊的真理。
それを普及させようとしているスピリチュアリズム
学んでみて受け入れられなければ、まぁそれまで…ですし、人間には拒否する自由があります。 
信じなければ地獄に落ちるようなものでもありません。 
こういう方面に対して、「食わず嫌い」な人も多いことでしょうが、知りもしないで否定する人生は寂しいんじゃないか・・・と、私は思います。

わたしが棄てた女 (講談社文庫)

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