ワーグナーとモーツァルト


二日前の日記で、私は、「ワーグナーチャイコフスキーの音楽は退屈だ」…と、恐れ知らずにも書きました。


どちらの作曲家も、非常に人気があるのは分かりきってますし、ワーグナーなんかは、19世紀中の凄まじい威光は失っているにしても、いまだに「信者」みたいなファンが沢山存在してますから、あまりワルクチを言うのも気が引けます・・・
うぅ〜ん、でも、やっぱり私はそんなに好きじゃないし、すぐに飽きてきちゃうし、しかも(なんだかだんだんワケもなく)それを聴いてる自分が気恥ずかしくなってくるんですよ・・・ワーグナーの音楽って。
ついでにチャイコフスキーも・・・(ごめんよ〜チャイコフスキーさん、許して〜 あなたを「退屈だ」と感じる理由は、ワーグナーへのものとは違うんだけど、話の流れでここで一緒にしちゃってごめんなさいっ!)


ワーグナーの作品が私にとって「退屈」なのは、この人の音楽って、最初から最後まで、とにかく「オレの話を聞け!」…だからなんですよね。
「オレの考えはこうだ!」「オレが好きなものはこれだ!」「オレにとっての理想」「オレの感じる美」「オレの」「オレの」・・・etc.
延々と続きに続く「オレ」のストーリー、それが彼の音楽なんです。
少なくとも、私にはそう聞こえます。


「オレの話を聞け」…の、その話を退屈せずに面白く聞けるのは、その「オレ」に「心酔している人」、最低でも「好意を抱いている人」に限られると思いますが、申し訳ないけれど、私はワーグナーってオッサンが全然好きではないし、可哀想な人、ハッキリ言って自己愛性人格障害?・・・くらいに思っているので、そんな対象の「オレ話」は、「どうか、さっさと終わって下さい」ってなっても仕方がないってもんです。


その点、モーツァルトは違いますよ〜♪
この人の音楽には、いつもしっかり「モーツァルト印」が刻まれていて、何を聞いてもすぐにモーツァルトって分かるくらいに、かれの個性が出てはいますけれど、でも、「オレの話を聴け」な音楽…ではないんです。
そう、まるでシルバーバーチの語る言葉のように、普遍的で、自然で、意外にたっぷりユーモアがあって、明るくて、しかもどこまでも深い優しさに満ちていて、聞き飽きるということがありません。
モーツァルトって人自身は、世間で生きる中で精神的安定をまったく得てはいなかった人で、よく「自閉症スペクトラム」関連の本を読んだりすると、「アスペルガー症候群だったと思われる有名人」の一人に数えられたりしてますから、基本的には「オレの話を聞け」な「オレ世界」で生きていた人なんじゃないかと推察されるんですが、しかし、不思議なことに、その彼が作った音楽は、「オレの話を聞け」ではないんですから、これはやっぱりただごとではありません!
天才・・・なんですよね。
彼を通して現れた、「天」の「才」なんですよね〜。


・・・でも、こんなモーツァルトの音楽を、まるでワーグナーのような「オレの話を聴け」的に演奏する演奏家って、いるんですよね・・・
特に最近の人は、そんな感じがします。
そういう演奏には、もの凄く違和感が漂うというか、せっかくのモーツァルトが、ギスギスする上に退屈になっちゃって、あぁ〜あ、がっくり・・・
かといって、無味乾燥な感情を込めない、ただ「個」を消した演奏がダメなのは当たり前なわけで、そこらへんのバランスをどう取るか、やっぱりモーツァルトの演奏は難しいんですよね。


無理矢理なこじつけかもしれませんが、「モーツァルトを本当に最高の状態で演奏しようとすること」と、「スピリチュアルな視点を持ちつつこの地上で生きること」とは、その本質でかなり似ているような気がします。


・・・ま、やっぱり「こじつけ」ですかネ・・・(^^;)


     (文責:ゆう)