「論争=悪」というパターン化した感性こそが危険

・・・それにしても、こういう事件(「有希さん裏掲示板事件」のこと)が起こると、かならずどこかで、「スピリチュアリスト同士の争いこそが一番いやだ」などと書く人がワラワラと出てきます。


これって、いわゆる「善人」の常識的で穏やかな感じ方なのかもしれませんが、でも、あえて言いましょう。
私は、そういう発想、パターン化した感性こそが、危険だと思うんです。


その議論が、大局から見て必要か必要でないかも考えずに、まず「争いは嫌い」「言い合っている事が醜い」と型通りに反応してしまう思考の浅さと固さ!
そういうセンスだから、たぶん、有希さんのあの偽善性が見抜けなくて、うかうか信用して傷ついたりするんだよ〜〜と、思ってしまうのは、私だけ?


私は、自慢にも何もならないけれど、自分が偽善者でゴーマンな奴だから、同類はすぐ分かるもん!
だから、有希さんのことは、はじめから馴染まなかったし、あの人の掲示板には一文字も書き込む気がしなかった。
「あっ、この人は、相当に無理をしてる」と思ってました。
なにしろユーモアの欠片も無いし・・
(セレさんが、「ビビらせたかもしれませんね?」と書き込んだ投稿に、「いいえ、ビビっていません」と返信するあたり、こりゃもう余裕なんか全然ないよ〜 ちょっとした冗談も通じない・・と。)


えーーっと、何を話してたんでしたっけ?
そうそう、「スピ同士の争いが嫌」という意見の持ち主も、けっこう存在するという話でした。


そう、これに遠慮すると、何も前に進まなくなってしまうんですよね。


「争い」は何でも十把一絡でイヤ・・という思考停止な感想は、こういうとき必ず出るんです。
これに負けてはいけないと思いました。
気分で動く人にとっては、「争っている」ことそのものが「悪」なんです。
「お願い〜〜ケンカはやめてぇぇぇ〜」と叫ぶ自分の「善意」が大好きで、それは「善意」であるから、当然「善」なわけ。
自分が「善」だという感覚は、確かに気分の良いものだよね〜(^^;)


でもっ!そんな感傷で向けられた「善意」による画一的な反感に負けてはいけないと思います。
ことの善悪が、本当のところ、人間には誰もわからないからこそ、同じ動くのなら、パターン化された感傷からではなく、理性で大局を見た上で動きたいと思います。
たとえそのせいで一時的に悪役になったとしても、そんな評価は、将来いくらでも変化しますしね(^^)
その将来を決めるのは、何れにしても、自分自身だってことです。
ここからが踏ん張りどころだと思います。


繰り返しますが、忘れてならないのは、バランス感覚と、やはり本当のところ「人は人を裁けないのだ」というこの世の真実でしょう。
(「論争すること」と「裁く」ことはイコールじゃないよ〜 そもそもこれが分かって無い人が多過ぎる!)
あと、ある人の問題は、そのまま自分の問題でもあるということです。
これを忘れると、いつのまにか自分自身も、自信満々の「善」な人になって、そこで固まってしまいますから、用心しなくては・・と思います。
(「用心」することと「臆病」になることも違うよネ^^)