神に感謝することがあるとすれば・・・

子供の頃から、「幸せ」って何だ?・・・と、ずっと考えてきました。
同時に、「美しい」ってどういうこと?・・・というのも、いつも私の心をとらえて放さない命題でした。


「完全な幸せ」って、あるのか?
「完全な美」は、あるのか?


中学生だったある日、その頃住んでいた海辺の町で、もの凄くきれいな夕焼けを見ました。
まるで印象派の絵画のように海の水面も、空の雲も、様々な色で輝き、本当に夢のようにきれいでした。
「もしかしたら、完全な美しさって、これかもしれない!」
私は、ひどく感動して、涙ぐみそうになりました。


その涙ぐんだ目を足もとに向けると、道端にはジュースの空き瓶が転がり、でもそれは、夕焼け色にピカピカ光っていました。
近くには、壊れた自転車も倒れていて、そのホイールも、錆びていない部分が斑に光っていました。


誰かが、急に私の後ろを、こう言いながら通り過ぎました。
「こんなにきれいな景色なのに、ゴミが落ちてて台無しね〜」


私は、どうしてか急に、そう言って通り過ぎた人が、とても憎らしくなりました。
「台無しなんかじゃないよ。それは、違うよ。」


ジュースの空き瓶も、錆びた廃棄自転車も、夕焼けの輝きが一段落すると、もう本当にただのゴミになってしまって、最初からそうであったように、なんだか寒々とそこにありましたが、私は、もし美術の宿題で何か絵を描くとして、さっきの夕焼けを題材にするなら、絶対に、この空き瓶と自転車も、画面のどこかに置きたい・・・と、強く思ったんです。


そこから家に帰る道すがら、思わず口にのぼってきた言葉は、「“完全な美”なんて、くそくらえだ!」でした。
その響きがとても気に入って、何度も何度も小さな声で唱えました。
「カンゼンナビなんか、くそくらえ〜」「くそくらえ〜♪」・・




私は、どうもそれ以来、非常に美しいものにふれる度に、どこかに破綻する部分を見つけて、喜びました。
そしてついには、「“破綻のし具合”が、そのモノの美しさを決めている」などという説を大袈裟に掲げ、いろんな人に言って回りました。


「幸せ」についても、同じでした。
「あ〜幸せだ」と感じる瞬間があれば、必ず、どこかに不幸のニオイを嗅ごうとし、それを発見してようやく安心していました。




この青臭い「クセ」は、今もまったく、抜けていません。


私は、「幸せな家族」なんて断言できる家族は、いないと思ってます。
完全に「幸せな恋愛」も「幸せな結婚」も「幸せな育児」も、そんなもの、どこを探したって、この世には存在しないと思ってます。


そんなものの存在を、もし単純に信じられる世の中なら、退屈でたまらない。


そして、わが「美しい夕焼け」の絵には、絶対に、ピカピカ安っぽく輝くジュースの空き瓶と、錆びた自転車が必要で、もしこの絵を、「汚いゴミを片付けましょう」と言って勝手に修正する人がいたなら、私は絶対にそれをゆるさないと思う。




私が、神に感謝することが一つあるとすれば、神が、それぞれの描いている絵に、なにも口出しをしてこないことです。
たとえその絵が、醜悪で見るにたえないにしても、神は、沈黙している。


私は、その沈黙が、なによりもありがたい・・・と、最近しみじみ思うのです。