キリスト教徒だった頃のこと


私は、かつてキリスト教徒でした。
子供の頃はカトリックの教会に通い、思春期以降はプロテスタント教会に通っていました。
かなりまじめに聖書を読み、日曜学校のリーダーを任されたり、オルガン奏楽を頼まれたり、たまには聖歌隊で歌ったりしてました。


長年教会に通っていると、「人間には表も裏もある」ということは、「あたりまえ」のことになってきます。
よく教会に通いだして日の浅い人が、「キリスト教徒は、みなさんもっと真面目で心の清らかな方ばかりだと思っていたのに、随分世俗的な方も多いことを知り、ショックを受け失望しました」などと仰って、ついにはもう来なくなってしまうことがありましたが、私には教会員に「世俗的な人が多い」ことなど、もはや常識というか、慣れっこになっている事柄でした。
人間が集まってるわけですから、まぁいろいろあるわけですよ。
むしろ、誰もが一様に「真面目」で「心優しい」人々だったら、それはそれで薄気味悪いじゃないですか?


むしろ私が、たまに教会の中で、「イヤだなぁ〜」と感じていたことは、自分の「正義」や「善意」を、相手のことも考えずに一方的に押し付ける傾向を持った人の存在でした。




あるプロテスタント教会(非常に規模の大きな教会でした)に、ある夫妻がいました。


この夫妻は、教会内では大きな発言力を持っており、二人そろって「役員」をなさってました。
私は、オルガンの奏楽が出来ることもあって、音楽好きの御主人からは、かなり可愛がっていただき、私もこのおじさまのことは大好きでした。
彼は、教会内でも、多くの人に好かれ、尊敬されていたと思います。


ところが・・・奥方の方はというと、これがなんとも高圧的な雰囲気を持った方で、御自分こそが「正義」であり、自分の意見に従わない人のことは平気で排除するようなところがありました。
ですから、多くの教会員は、御主人の温厚さや知識の豊富さを慕いつつも、始終奥方の顔色を伺う・・・といった感じで、この夫妻に接していました。


物事を、ややひねくれた方向から見ることがクセになっていた私は、この夫妻の奥方が、夫の人望を利用して威張っているようにしか見えませんでした。
「こんなおばさんのご機嫌をとってるなんて、馬鹿みたい」・・・と、周囲の大人を見ては、よく思っていました。


この奥方には、数人の「金魚の糞」がいました。
いわゆる「お取り巻き」です。
この人たちがまた、「類は友を呼ぶ」の諺通りに、よく似たキャラクターの皆さんで、私は心の内で「パリサイおばさんグループ」と命名していました。
(「パリサイ人」というのは、聖書の中によく登場する、教義に忠実なあまり非常に狭量で傲慢な考え方を持った人々です。)


あるとき、どんな事情でか知りませんが、「パリサイおばさんグループ」の一人が、そこから排除されるようになりました。
どうやら、ボスである奥方に嫌われたようでした。
以来、教会内にはさまざまな小さな争いが勃発し、特に「婦人会」は大荒れに荒れていたようです。
若かった私には、詳しいことはよく分かりませんでしたが、でも分からないなりに感じたことはいくつかありました。


まず、その「仲間はずれ」になった女性は、実は教会内では、もっとも「ボスの奥方」に良く似た性格、雰囲気・・・の方だったってことです。
そして、「ボスの奥方」が言う非難の言葉も、「仲間はずれ」さんが言う非難の言葉も、どちらも内容的にはそっくりでした。
当時の私は、「似たもの同士だからケンカするんだろう」と思っていましたが、今から思えば、たぶんあの二人は、お互いの中に自分自身の嫌な部分を逐一見るがゆえに、より感情的に反発しあったんでしょうね。
まさに、彼女達は「鏡」の関係だったわけです。




そんなこんながあって、私も大学生になり、あるとき「ボスの奥方」と「仲間はずれ」さん双方の私生活を、ひょんなことから知りました。


彼女達は、実は様々な問題を抱えていました。
だからこそ、「信仰」に自らの救いを強く求めていたわけで、あれだけ熱心に教会活動をしていたわけです。
彼女達の、あの「活動」の熱心さは、彼女達が、深い「喪失」を埋めようとする必死さの表れだったのです。


それを知った時、私には初めて、彼女達への親近感や共感が生まれました。
「そうか・・・彼女は苦しんでいたんだ。だから、ああも排他的になって、自分の城を守ろうとしているのか・・」と。


そうは言っても、相変わらず、二人の良く似た女性同士は、教会内で独自に派閥を作り、いがみ合っていました。
それが原因で、キリスト教に失望し、信仰を捨てる人も多く出ました。
私も、その中の一人です。


彼女達の「苦しみ」や「喪失」には共感できても、それがキリスト教の信仰をもってしてもまったく解決されないことへの失望や、現実に起こっている派閥間のイザコザにすっかり嫌気がさし、すっかり教会に足が遠のいてしまいました。




スピリチュアリズムを知り、すべては「自分自身の責任」であることや、「自分の理性で考えること」の大切さを学んだ今、こうした真理を手にしても尚、人は、同様の間違いを起こすものなんだ・・・と、しみじみ思います。


結局、人間は、各自の苦しみを、きちんと見つめなければ駄目なんですね。
自分の苦しみときちんと向き合った上で、自分以外の人にも、同じように苦しいことがあることを思いやるべきなんですよね。
そして、最終的には、なんとかしてそれらをひっくるめて赦していこうと、努力すべきなんでしょう。
その過程こそが人生の学びになるのではないでしょうか。



・・・そうは言っても、その過程の中でも、悩みは次々と発生します。
例えば、単純に「ゆるしましょ〜なかったことにしましょ〜」という姿勢でいることが、はたして正しいことなんだろうか?・・・といった迷いは、私の中では、毎日のように湧き上ってきます。
なんでも「ゆるしましょ〜」でいることは、それはもしかして「思考の停止」「思考の放棄」ではないのか?と思ったり、いや、そのようにいろいろ理由をつけて自分の不寛容さを正当化しているだけなのではないか?と思ったり・・・で、そうそう簡単に答えはでそうもありません。


ただ、究極的に私達は、もともとは大きな類魂のメンバーであり、「自分はみんな、みんなは自分」なんだ・・・ということは、忘れずにいようと思います。
どんなに理不尽に思える相手でも、どんなに好きになれない相手でも、オオモトをたどれば自分とつながっている、自分自身なんだ・・・ということを、忘れずにいようと思います。
その「忘れずにいようと思う」ということが、今の私にできる、ギリギリのところかもしれません。