私は自由だぞぉ〜


シルバーバーチの霊訓」は、素晴らしいです。
特に、潮文社から出版されている全12巻のシリーズは、何度読んでも、いつ読んでも、心に響きます。
読んで救われた人は、本当に多いと思いますし、私もその一人です。
シルバーバーチ」という響きを聞くだけで、心がほぉ〜っと温かくなり、「大丈夫! 頑張って生きていけるよ〜」・・・と思えるほどです。


そう、私は、シルバーバーチが大好きです。


でも・・こんなこと言っていいですか?


私・・・別に今、シルバーバーチがなくなってしまっても、「生きていけない」なんて思いません。
大好きな本だから、「なくなってもいい」とか「なくなってほしい」なんて絶対に思いませんが、万が一の話、もしこの世からなくなってしまったにしても、それで「スピリチュアリズムは終わりだ」・・・などと思わないだろうし、別に平気です。


だってそうでしょう?
シルバーバーチの霊訓」という本がなくなろうが、シルバーバーチが語っていた「霊的真理」は、ほんの少しも変わらずに、永遠に存在しているのですから!



だから、もう一度言います。


私は「シルバーバーチ」が大好きだけど、「シルバーバーチ」がなくても大丈夫です。




夫のセレフィカさんは、最近さかんに「霊訓の版権が欲しい」と言っています。
つまり、「心の道場」が多くの霊訓の版権を所持していることに対して危惧するところがあるから、そういう発想も生まれてくるわけですし、またそれほどに彼は、「霊訓こそスピリチュアリズム普及には最重要」と考えているわけです。


確かに、それはそうです。
私だって、多くの霊訓を読むことで、沢山の知識や知恵を授かりましたし、人生観が一変しました。




ただ、最近になって、こう思うようにもなったんです。


シルバーバーチは素晴らしい。
非常に素晴らしい。
でも、シルバーバーチだけに固執するのはどうか? 
シルバーバーチの言葉に、何から何まで答えを求め、依存しきってしまうことは、どうなのか? 
ましてや、自分の都合でシルバーバーチの言葉を拡大解釈し、無意識に利用することは、依存の最たるものではないのか?
加えて、シルバーバーチ以外の霊言は認めない・・・などと排他的になることは、はたして健康な精神状態だろうか?




この際に言わせて貰えば、「シルバーバーチ以外は認めない」などという発想は、不健康です。
なぜって、そこには自由がないから。
精神の自由がない。
心の自立がない。


心の自由、心の自立、それを大切にできなくて、どうして他者を心から愛せるでしょうか?
相手を大切に思うことができるでしょうか?
相手の幸せを願えるでしょうか?
なによりも精神の自立と自由なくして、人間として生きる意味があるでしょうか?


シルバーバーチ自身だって、自分の言葉が、まるで「経典」か何かのように崇め奉られることなんか、ちっとも望んでいない筈ですしね。




だから、私は叫びたいんです。
「私は自由だぞぉ〜〜〜!」と。
シルバーバーチを最高だと思えるのと同時に、なくてもいいよと思え、この二つの思いがしっかり両立するほどに、私の心はどこまでも自由に自立していたいんだ! そう願っているんだ!」・・・と。