言うだけのことは言いたい


公の掲示板の意見を取りまとめ、その代表として手紙を送ったというのに、それに対して、「私信」を返し、
「ですから、この手紙は一切公表しないで下さい。そして手紙を受け取ったことを他人に言う必要もありません。」
と書く、この非礼さ・・・・。


ところがセレフィカさんという人は、この「心の道場」主催者夫人の手紙を、
「僕は、別に非常識だとも非礼だとも思わないけどなぁ。やっぱり『私信』は『私信』なんだから、公開してはモラルに反するんじゃないのかな?」
・・・と言います。


でも、私には、それがどうしても分かりません。


まず、文章からして気に入りません。


「手紙を受け取ったことを他人に言う必要もありません」・・って、セレフィカさんは小池里予氏の「子分」か「使用人」なんでしょうか? または「生徒」?
私は、これまでの人生で、ここまで横柄な物言いの手紙を見たことがありません。
いったい何様のつもりでしょうか?
「言う必要もありません」・・・って、これ、何ですか?


そもそも、「私信」を返してくることからして間違っているんです。
それでも、あくまでも「私信」として処理してほしいのであればせめて、
「恐れ入りますが、この手紙を受け取ったことを公表することは、差し控えていただけますでしょうか。身勝手なお願いとは存じますが、なにとぞお聞き届け下さいますよう、よろしくお願い申し上げます」
・・・くらいの文章を、私なら書きます。
普通に常識のある人なら、この程度の礼儀は文中に尽くすものではないでしょうか?
それを、まぁ、高圧的にもほどがある調子で、「必要はありません」・・・ですからね。


そうやって実はセレフィカ氏の「好意」をアテにし、一方的に甘えているくせに、居丈高に「あなたの行為が霊的真理から見たとき正しいとは思えないからです」とおっしゃる、これまた無邪気なまでの傲慢ぶりはどうでしょうか?


だいたい、手紙の大半は、有希さんの「悪口」でした。
「心の道場」が、「どんなに有希さんの所為で迷惑を被ったか」ということが、延々と書かれていました。
これが一体、「愛」だの「道具意識」だの高みから仰っている方の文章なのかと、私は目を疑うばかりでした。


霊的真理から見て正しくないことをなさっているのは、いったいどちらなのでしょうか?


有希さんが陰口を裏掲示板で言っていたことを熾烈に非難されるのであれば、あなたも、こんな「私信」に悪口の限りを書いたりせず、堂々と「検証掲示板」までお出ましになって、公に発言なさればいいのです。




とにかく、私は、こういう卑怯な人が、スピリチュアリズムシルバーバーチを、まるで自分の占有物でもあるかのように扱い、歪めていることが、許せません。




でも、こういうことをブログに書いたら書いたで、今度は、私を非難する人がワラワラ出現するのも、もうだいたい予想ができてます。


「なぜ許せないんですか? もっと自分自身を見つめましょう」
「心の道場さんには感謝すべき点のほうが多いのでは?」
「スピリチュアリスト同士で争う意味があるんですか?」
「私信にしてほしいと頼まれたのに公開するのはフェアではありません」
「どんな人のことも愛さなければいけません」
・・・・・・などなどなどなどいろいろいろいろ善人ぶりっ子の人が現れるに違いなく、いつも間にやら、「ゆうさんって、しょうがない人ね〜 セレフィカさんもお気の毒に!」といった空気が漂い、「でも、私たちは、本当の意味でのスピリチュアリストとして共に頑張りましょう〜」・・・とかなんとか。




それでも、私は、なんら動揺しませんから!
ここから動きませんから!
「心の道場のモノの考え方はおかしい」・・・と、これからもずっと言い続けますから!


ある意味、有希さんは、その犠牲者です。
今回、里予夫人からの手紙を読み、私は初めて、有希さんに対して共感する思いが持てました。
有希さんの一人の人間としての哀しみに、胸が突かれるような気さえしました。
検証掲示板での検証を、あのまま有耶無耶に終わらせたりしたら、有希さんは、いつまでも誤解されたままになる・・・とすら思いました。
単純に「許しましょう」「これ以上傷つけないようにしましょう」という考え方もあるかもしれませんが、それでは、誤解されたままの有希さんは、あの時のあの場に置いてきぼりになってしまいます。


それとも、そっと置いてきぼりのままでいいのでしょうか?
その方が、彼女の心は癒されるのでしょうか?