自分で考えるために


スピリチュアリズムのどこが好きって、それは、一般の宗教のように「誰かの決めたガイドライン」に従っていくのではなく、ただ唯一「私達の霊魂は永遠のもので肉体は死んでもずっと未来に続いていく」ということを信じ、あとは「自分自身で考えて人生を歩んでいける」・・・という点です。




思えば私は、子供の頃から「団体行動」が苦手でした。


・・・と言っても、うちの息子のように実際に団体での行動を拒否する気の大きさ?はなく、心の中で「イヤだなぁ」と思いつつも、学校行事などにはそれなりに「楽しそうに」参加してました。




キリスト教に心惹かれていたので、毎週カトリック教会に通ってもいましたが、教会内でのミサなどはいいのですが、たまに日曜学校の子供たちと遠足に出かけたりして、外でお弁当を広げる時に、神父様が先導して「皆でお祈りしましょう」・・・なんて言われると、実はそれがとってもイヤでした。


なにしろ「外」ですから、一般の人が沢山います。
そんな中で、団体で「主よ〜」「イエスさま〜」なんてお祈りするわけですから、そりゃー目立つわけです。
当然周囲の人は、「あ、シューキョーの方々ね」って感じの目で見ますし、私なんかはそれが気になって仕方がなくて、とてもじゃないけど「お祈り」に集中なんかできません。
でも一応は目を閉じて、十字を切って、恭しげに頭を垂れるわけですが、どうもスッキリしなくて、「この時間が一秒でも早く過ぎ去りますように」なんて念じてましたっけ・・・




そんなわけで、団体旅行などは「大嫌い」の筆頭です。
あんな形態の旅行をして、いったい何が楽しいんだろうかと思います。
「お友達とのお喋りが楽しいのよ〜」とはよく聞くところですが、私は性格がひねてるせいか、子供の頃から「友達とのお喋りが楽しい」と素直に感じた記憶があまりありません。


そりゃね、一緒にいて心から楽しい人はいますよ!
でも、そんな人は、もぅめっちゃめっちゃ少ない。
(だからそういう友は一生の宝!)


たいていの場合は、「この人と話してるくらいなら本を読んでるほうがいいな」と思ってしまう。
「会話が楽しい」って言うけれど、傍で見ていると、沈黙を恐れるあまり、とりあえず当たり障りのない話題で空間を埋めているようにしか見えないし、どれもこれも退屈で「それがどーした?」ってことばかり。
息子の保護者会に行っても、自分の同窓会に顔を出しても、話されていることなんて、面白くもない、子供がどーした、夫がどーした、姑が、親がどーした。
そんな会話の中には、必ず「したり顔」で場を仕切り、いかにも人生分かったような口をきく人がいて、いつの間にか彼女が中心になり、あとはなんとなく付和雷同、とってつけたような笑いの渦。


どうせそんな時間を連続させただけの団体旅行なんて、私には無意味だし、それ以上にストレスの素でしかないと思うわけです。




この前の記事でも、「団体で美術館に押し寄せるおばちゃん」を「好きじゃない」と書きましたが、私は美術館みたいなところこそ、独りで静かに何時間でも好きなだけ見ていたい人間なので、同行の他人や集合時間に気を遣いながら、余計なお喋りをしながら…なんて真っ平です。
勿論、同じような視点で一緒に回れる仲間がいれば、それはとても楽しいことで、私にとってそれは妹なんですが、彼女とは感性や知識が相当似ているので、様々な作品を前に一言二言意見を言い合うことは本当に有意義だし、独りで見ているより何倍も楽しと思えるけれど、いわゆる「付き合い」での美術展グループ鑑賞なんて、絶対にイヤ。死んでもイヤ。




・・・とまぁ、そういう超ワガママ、基本的に単独行動好き・・・な私にとって、スピリチュアリズムは、願ったり叶ったりな信条なのです♪




ただし、「なんでも自分で考える」ためには、多くの「情報」を集めることが大切だと思っています。
「情報」を得るためには、他者の考え方に耳を傾けることは絶対必要だし、心の素直さ、謙虚さを失ってはいけないと思います。


そして、そうして集めた情報を基に、あとは自分でじっくり考える。




たとえば美術館鑑賞なら、やっぱり助けになるのは、それまでに観てきた作品の量と、自分なりに整理された知識だと思うんです。
その積み重ねがあれば、はじめに「これは名作ですよ」と聞かされなくても、見ただけで、それが自分にとってどんな作品か分かるじゃないですか。
たとえそれが無名の浮世絵師の版画であっても、心を打つ作品は、私には大切な存在です。
北斎」の作品だから凄い・・・なんて見方をしているうちは、いつまでたってもそんな個人的な出会いは得られない。


そう、ルーヴルやヴァチカン美術館を「名作だけ駆け足で巡る」なんて団体旅行してるうちは駄目なんですよ。
もっと沢山の「名作でもなんでもない作品」を丹念に見てなきゃ、いわゆる「超名作」の真の凄さなんて分かりっこないし、「名作」とはされていないものの良さを発見することもできないでしょう?




私にとって、『シルバーバーチの霊訓』は、西洋美術に譬えるなら、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』みたいなものです。
モナリザ」は、たまに見ると、「やっぱり凄いなぁーーー」という作品ですが、「シルバーバーチ」もページを開くと、「やっぱり凄いなぁーーー」・・・なんですよね。
圧倒的に素晴らしいと思います。


でも、ルーヴル美術館には、「モナリザ」以外にも素晴らしい作品は沢山あります。


私にとって特別な作品はフェルメールの「レースを編む女」とか、あとマンテーニャのあまり有名でない、なんだか気持ちの悪い、でも笑っちゃう絵(題は忘れた^^;)も気になるわけですが、だいたいルーヴル美術館ってところは、あの広大なスペースに展示されている作品の何倍もの作品を購入&所蔵してるわけで、その上での「モナリザ」でありミロのヴィーナス」だと思うんですよね。


シルバーバーチ」も、それだけ読んでいるのであれば、それだけのことだと思えるんです。
モナリザ」や「ミロのヴィーナス」だけいきなり駆け足で見ても、あれら凄い作品の真価がいまいちピンとこないように、「シルバーバーチだけを何度繰り返し読もうが、それってどうなんだろうか?


私は、やっぱり沢山の本を読むべきだと思うんです。
シルバーバーチ」だけに限らず、スピリチュアリズム関係だけに絞らず、なんでも、いろいろ読むべきだと思うんです。
世の中には、本当に数え切れないほどの本が出版されていますが、良い本には必ず普遍的な真実、つまり「人間の霊魂は永遠」ということが見え隠れしています。


音楽にしてもそうです。


私は、ベートーヴェンスピッツが好きですが、なぜなら、彼らの作品に普遍的な輝きを感じるから。
クラシックだろうがロックだろうが、いいものはいいし、つまらないものはつまらないわけで、それを自分の中で決めるまでに、それこそ山のようにあらゆる音楽を可能な限り聴きました。
これからもいろいろ聴き続けて、お気に入りを増やしたいと思ってます♪
(最近「BUMP OF CHICKEN」は気になる・・・まだあまり演奏は上手くない気がするけど、現在天体観測ならぬ定点観測中^^)




・・・・で、そろそろ結論へ。




結論その1.


シルバーバーチ」が最高だと言われているからといって、それだけをヤミクモに読んで「信仰」しまくる前に、それを自分自身の内側からも湧き上がる声として実感できるよう、様々なジャンルの本を沢山読むべしっ!
限られた「名作」だけを見る・聴く・読む・・・しても、その「名作」の真価はわからない!




結論その2.


誰かが「これは最高だ」と言っても、それにつられないようにしようっ!
大勢が「これは本物だ」と言っていても、自分がそう感じるまでは決めないようにしようっ!




結論その3.


団体で美術館に行くのは止めよう・・・・・・(゚∀゚)アヒャ