「事実」と「真実」


1月2日の記事へのコメント欄で、ヨシさんが言及されていた遠藤周作氏のエッセイ集「万華鏡」(朝日文芸文庫)を、私も読みました。
その中で、特に心に残った一文を、まず引用しようと思います。

「私のような小説家はいつも思うのだが、自分が小説を書くようになったのは、多くの人が誤解しているように、自分の人生体験からではない。 
人生体験という事実ではなく、芸術体験という真実のおかげである。 
つまり学生時代や青年時代に色々な小説を読んだり絵をみたり、音楽を聴き、大きな芸術的真実にひたったのち、自分もそのような表現をやってみたくなったからである。
さまざまな芸術作品の共同体の働きのおかげで、私も小説を書くことができるようになったのだ。
私だけでなく、ほとんどすべての小説家や画家や音楽家たちは、彼らのつまらぬ人生の事実よりは、芸術作品という真実の人生の集合体の働きから、想像する悦びを教えられた筈だ。」


 遠藤周作著 『万華鏡』(朝日文芸文庫) 「誰かの、あと押し(2)」P.144 より引用

遠藤氏は、このエッセイの中で、

「事実と真実のこのちがいがわからぬエセ合理主義者は、いかに人間として索莫としていることか。」

「我々は事実だけではなく、真実で生きることを忘れてはなるまい。 そして、その真実を事実絶対視の立場からせせら笑う人間は、人間をあまりに知らなすぎる。」

・・・とも言っています。


彼はここで、「神」の存在について、目に見える「事実」として証明はできないけれども、それを信じる者にとっては、生きていく上の「真実」である、と述べているわけですが、私も、本当にその通りだと思いました。


それと同時に、私自身の心に浮かんだことがありました。


さまざまな宗教家や、スピリチュアリストのように、精神世界について語る人間は、どうしても、その実際の人格を問われがちです。
言っていることは立派だけれど、それを言っている人の、その人格はどうなのか?・・・とは、よく言われることです。


確かに、言動は一致しているべきだ・・・と、思います。
シルバーバーチを信奉し、利他愛を説きながら、週に1〜2度は風俗店に通うような人がいたとしたら(いるか?^^;;)、やはり、そんなエロ男(?)の言うキレイ事は信じられないし、彼が語るシルバーバーチそのものすら「ウソ臭く、薄汚く」聞こえてくるでしょう。 (少なくとも、私を含めて多くの女性はそう感じるんじゃないですか・・・?)


そこまで極端ではなくても、たとえばこの私は、スピリチュアリズムを人生の中心に据えてはいますが、昨日の日記にも書いたように、性格は決して「良く」はありません(苦笑)
偏屈だし、いささか戦闘的だし、ワガママで自己中心だし・・・


しかし、私のこの芳しからぬ性格の「事実」だけを見て、私の「真実」まで判断されたくはないのです。
(ま、別に判断されたとしても、そういう感性の人とは、どうせ始めから付き合う気もないので、どうでもいいことですけどね〜)


他にも、スピリチュアリストのくせに「傲慢だ」とか「冷酷だ」とか、こういうことをやっていると、何かと非難される局面は散見するわけですけれど、そういった批判も、所詮は「事実」の一面を見ているに過ぎないのではないか・・・と、思うんです。
そもそも、我々が見る努力をすべきものは、この物質世界では目には見えない「真実」であって、「人」ではないのでは?


「人」にこだわるあまりに、せっかくの「真実」を遠ざけてしまうと、それこそ本当に残念なことだと思います。


     (文責:ゆう)