『冷めない紅茶』


私が通っていた学校には、いつも立派な図書館がありました。


小学校のそれは、図書館というよりは「図書室」と読んだ方がしっくりする小ぢんまりとしたものでしたが、何か嫌なことがあったり、不安を抱えている時、私はまずこの図書室に行き、隅っこの椅子に座ってました。
そこで目の前の棚に並んだ「日本民話全集」の背表紙を眺めていると、なぜかしら気持ちが落ち着きました。


高校の図書館は2階建てで、窓も大きく、それは気持ちのよい空間でした。
毎日放課後ここで本を借りたり返したりすることは、私の日課みたいなもので、司書の先生とはすっかり顔なじみでした。


あの頃の図書館は、まだコンピューター管理にはなっていなくて、本の裏表紙に貼り付けたポケットに差し込まれた「貸し出しカード」での管理でした。
私は暇をもてあましている時など、よくこの「貸し出しカード」を見るためだけに、本棚から本を出したり入れたりしていました。
なぜなら、貸し出しカードには、その本を借りた人の学年と名前が記入されていて、意外な知り合いが純文学の愛好家だったり、ガリベンのあの人が、思ったとおりの本を次々と借りていたりした記録が見てとれましたし、何よりも私にとって重要だったのは、自分が密かに好きな人が借りた本を探し出すことでした。


大学の図書館は、その蔵書量はたいしたものでしたが、でもちょっと暗くて寒くて、あまり好きになれる空間ではありませんでした。
それでも私は、ほぼ毎日そこに通って、図書カードが隙間なく詰め込まれた引き出しを開けては、カードを一枚一枚めくり、目指すものが見つかればそれを貸し出し票に記入し、無愛想な司書さんのところに持って行く・・・という動作を繰り返していました。




『冷めない紅茶』は、小川洋子の初期の作品です。
『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞する前年、この『冷めない紅茶』も候補作でした。



この短編には、中学校の図書室が出てきます。
その図書室を中心にして、人の生と死、こちらの世界とあちらの世界が、境目なくまわっています。


まだ20代の小川さんの、強がった若さもあちこちに表現されていて、それがまた好ましい作品だと思います。
例えば次の抜粋箇所は、ストーリーにはあまり関係がありませんが、主人公への共感を特に感じ、私がときに「彼女は自分だ」と思い込みたくなる部分でもありました。

黒板にサトウからの伝言が残っていた。今朝きれいに消したばかりなのに、と思いながら、わたしは彼のとがった字を読む。
『歯が痛いので歯医者に行ってきます。何も食べられそうにないので、夕食はいりません。ごめんなさい。』
日曜の夜に診察してくれる歯医者なんているのだろうかと、わたしは不快な気分で思った。
(中略)
しかし、わたしを本当に不快にさせたのは、ごめんなさいという文字だ。わたしは、空缶を転がすようないい加減さで、ごめんなさいとか頑張ってとか言われるのが嫌いなのだ。サトウはまだ、そんなことも気付いていないのだろうか。こんなに長く一緒に暮らしていて、彼はわたしについて知らないことが多すぎる。わたしは、サトウが『足のつぼでアレルギーを治す』とか『人前であがらずに話す法』といった類の本を買ってくることや、ビールが飲めないかわりにレモンライムをがぶ飲みすることや、テニスでエースを取った時、信じられないという表情をわざと作ることが、たまらなく嫌いだというのに。


完璧な病室 (中公文庫)』 166頁より抜粋


このような文章を読むと、私自身20代前半だった頃を思い出し、その痛々しさに涙が出そうになります。
「わたし」が嫌っているものは、私も心の底から嫌いでした。
でもそんな思いは、結局、誰にも分かってはもらえないし、ましてや共感など期待できるものではありません。
でも、どうしても私はそれを求めたし、その欲求が拒絶されるたびに傷つきました。


思えば『冷めない紅茶』には、図書室といい、こうした主人公の感情といい、私にとって懐かしいものがいっぱい詰まっています。




しかし何よりも小川さんは、作家として歩み始めたときから、ずっと「死」を見つめている人です。
彼女はよく、腐っていく死体や、病んだ内臓や、失われてしまった肉体器官について書きますが、そのものをとりまく空気には一点の濁りもありません。


そこを評してよく人は、小川洋子の文章を「透明だ」と言いますが、確かに小川さんは、あらゆる物を透明にして、その消滅した先に目を向けさせる天才魔術師です。
彼女の筆にかかると、あらゆる物は、いつか消えていき、最後に何か見えない存在を残すから不思議なんですよね。
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完璧な病室 (中公文庫)

完璧な病室 (中公文庫)

※最初期の作品、『完璧な病室』『揚羽蝶が壊れる時』『冷めない紅茶』『ダイヴィング・プール』が納められてます^^