『ダイヴィング・プール』



4歳の時、私は、妹を殺しかけたことがあります。


生まれたばかりの妹は、その日も寝かされた離れの一室で泣いていました。
顔中を口にして泣いていました。
ところが姑に言いつけられた仕事で忙しかった母は、なかなか赤ん坊をかまいに来ることができず、ベビーベッドの脇には、幼い姉の私だけが佇んでいました。
妹は、母が来るまでは絶対に泣き止むまいと強い決心でもしているような、ディミヌエンドなしの大音量で泣いていました。
私がどんなにあやしても、そんなものは意にも介さずきっぱり無視して、ひたすら母を呼んで泣いてました。


あぁ・・・もう、赤ん坊って、なんてうるさい声で泣くんだろう。


そう思った私は、妹の顔に、毛布を被せました。


それでも妹はひるむことなく泣いていましたが、毛布が音を吸い取るので、さっきほど「うるさい」と感じなくなりました。
私は、あともう一枚毛布を被せたら、もっと静かになると思い、更に妹の上に重ねてみました。
なるほど、確かにいっそう静かになります。


しかし突然、母が部屋に入ってきて毛布をめくり、素早く妹を抱き上げたので、せっかくの「程よい静寂」は、また凄まじく甲高い泣き声で破られました。




・・・・・・この光景を、私は自分で直接覚えているわけではありません。
その後繰り返し、母から「ゆうは妹を殺しかけた」と言われ続けたので、まるで自分自身の記憶であるかのように再現できるだけです。


「御丁寧に毛布を二枚も重ねて顔にかけて、よくあれで窒息しなかったわ!」
「泣いてるなぁ〜と思ってたら、急に声がくもったから、気になって走ってきたらから助かったけど」
母は、よほどこの話が気に入っていたようで、ことあるごとに話題にしました。




小川洋子は、芥川賞の候補に4回なっていますが、『ダイヴィング・プール』も、そのうちの一つです。


私は、この作品を読んだとき、まっさきに自分自身の過去の「殺人未遂」を思い出しました。


もちろん4歳の私には、明確な殺意などありませんでした。
毛布を赤ん坊の顔に重ねて置けば窒息するかもしれない・・・という予想が立てられたとは考えられません。


私が欲しかったのは、ただただ「静寂」だったのだと思います。
そして今から思えば、「妹が泣く」→「母が飛んでくる」→「妹をかまう」→「妹の機嫌がなおる」→「母が用事をしに戻っていく」・・・といういつものサイクルを壊したかったのかもしれません。
私がしつこく泣けば「聞き分けのない子」と叱られるのに、赤ん坊の妹が泣けば、こうも無条件に受け入れられる・・・という場面を、もういい加減見たくなかったのかもしれません。
だから、妹の泣き声を「小さく」したかったわけです・・・きっと。




『ダイヴィング・プール』の主人公は、女子高校生です。


読み終わった瞬間、私は、彼女をなんとかして抱きしめてあげたいと、それは強く思いました。
「床に積もったばかりの真っ白な雪」や「濁りのない水をたたえたプール」を、そのまま彼女に残してあげるにはどうしたらいいのだろうか・・・と、しばらく真剣に考えている私がいました。



完璧な病室 (中公文庫)  【完璧な病室 (中公文庫)
最初期の作品、『完璧な病室』『揚羽蝶の壊れる時』『冷めない紅茶』『ダイヴィング・プール』の4つの短編が収録されています。