手相鑑定一回千円也^^;


昨日土曜日、私たち一家は、都内の某ショッピング・モールに出かけました。
そこをしばらくブラブラ歩いていると、似顔絵描きと共に、占い師も小机を並べていて、「本日特別に手相を1000円で見ます」…との紙が貼られています。
見れば、その占い師さんは、感じの良さそうな年配の婦人で、それなりに年季が入っていそうな雰囲気。


かつて各種占いに大いに嵌まり、さんざん周囲の人を占った経験のある私は、当然自分の手相がどんなものかは大方分かっていたのですが、なぜか急に遊び心が湧き上がり、いわゆるプロの占い師が、私たちの手相をどう見るのか知りたくなってしまいました。


かくして、あまり乗り気でないセレフィカさんや息子を強引に説得。
グイグイ手を引っ張って、占い師さんの机の前に座らせました!




まず初めはセレフィカさんから☆
(「何を言われるんだろ〜、楽しみ〜」と心の中でワクワクする私・・・)


彼の手を一瞥するなり、占い師さんが言うには、「あなたは大変勉強家、努力家で、辛抱強い人ですね。そして、御先祖様から非常に強いご加護を受けています」・・・とのこと。


ほぉ〜〜


占い師 「性格は温厚で、思いやりが深く、人気線があるので、あなたを好きな人は多いでしょう。…ところで、最近転職しましたか? 職種は同じでも会社を変わったとか?」
セレフィカ 「…あ、ええ、会社を変わりましたね。」
占い師 「転職は成功ですよ。そこでとても出世するでしょう。おそらくあなたは専門職ですね? その専門分野で、かなり高齢になるまで活躍できます。それだけ健康にも恵まれるということです。」
 「( 胸中 : なんだかセレさんったら、いいことばっかり言われてるなぁ〜 センスがビンボー臭いとか、そういう見立てはないのかなぁ〜 )」
占い師 「また、あなたには美的センスがありますね。料理の腕も良いです。」
 「( 胸中 : えぇーーーっ!? )」 密かにセレ氏の横顔を見ると、彼は見事なまでの無表情…
占い師 「それから、あなたは非常に良い結婚をしています。結婚で幸せになっています。」
 「へぇ〜(゚∀゚) ←(と、ここは思わず声が!)」


他にも、「意外に頑固なところもある」とか「将来は親の面倒を見ることになる」などなどと言われて、セレさんは終了。




次に、占い師さんの前に手を出したのは、私^^


占い師 「あなたは、実はとても好き嫌いのハッキリした人ですね。見かけはこんなに優しそうですが(←この台詞は実に10回は言われたのだ!)、好きな人には一所懸命に尽くすけれど、嫌いだと感じる人のことは知らん顔で避けて通りますね。」
 「…確かに、そうですね〜」
占い師 「ただ、あなたはとても家庭的な人です。家族をとても大切にしています。ですから、もしご主人が浮気などしようものなら、もの凄くキレるでしょうね。」
ここでセレフィカさんが、なぜか爆笑。
占い師 「そして凄いのは、この知能線の長さです、ほら、ここまで伸びてるんですよ。あなたは非常に頭の良い人ですね。それに、子供の頃から20代にかけて、大変熱心に勉強しています。今現在は、昔ほど努力はしていないようですが、昔の努力のお蔭で仕事も順調なはずです。」
 「( 胸中 : 確かに最近は子供の頃ほどガリ子じゃないっすねー )」
占い師 「さらに、蓄財や権力、名誉に恵まれる運を持っています。健康だし、長生きできますよ。ただ、ちょっと浪費家ですね。出て行った分だけ入ってくる運ですから、お金に困ることはありませんが、ご主人はあなたよりずっと慎重な人なので、時々ブレーキを掛けられるでしょう?」


・・・と、なんだか私は一言にまとめると「ワガママだ」と言われた感じで終了。




最後に、息子。(本人、まったく興味なしのまま、手だけ前に。)


占い師 「あなたも、ご先祖様のご加護が強くありますね! それに、この知能線を見て下さい。頭が非常に良いので、ぜひ何か専門の能力を身につけましょう。理数系が向いています。」


あらためて見ると、確かに息子と私の手相の知能線は長く、ほとんど手を斜めに横断しています。それと比べるとセレフィカさんの知能線は我々の半分の長さ! ってことは、セレさんは私たちより「アホ」なの!? え?


占い師 「他人から変わってると思われても気にしないことです。よく勉強して、高い専門能力を身につければ、誰ももうあなたを変わっているとは言わなくなります。」


やっぱりねー、誰が見ても息子は「変わってる」んだろうなぁ〜と、妙に納得する私…。




ま、そんなわけで、「ご先祖様のご加護に恵まれた一家」ということで、ありがたく計3000円を支払ったわけですが、結論から言えば、手相を含め「占い」というものは、「占い師が、いったいどれだけの情報を相手から引き出し、反応を見つつ、それを言語化していくか、その過程を楽しむエンターテイメントだ」…ということですね。


昨日の占い師さんにしても、手相だけではなく、私たちの人相やら身なり、雰囲気をトータルに見て判断し、いろいろ語っていたはずです。
セレフィカさんが「美的センスがある」などと言われたのも、いつもの彼の超ダサダサな服装ではなく、休日だからということで私から強制的に着替えさせられたお洒落な刺繍入りのTシャツを着ていたからだと思いますし、私が「浪費家」と言われたのも、やっぱりファッションや持ち物を見ての感想でしょう^^;
息子が「変わってる」のは、どんなに観察力のない人でも分かることですし・・・
とはいえ、セレフィカさんの最近の転職を言い当てたのは、なかなか見事な洞察だと思います。ベテランならではの技なんでしょうか?(笑)
いやー なかなか楽しませてもらいました!


うめぼし&ままごと礼賛


わが愛するスピッツの初期の名曲『うめぼし』を、ときどき無性に声を張り上げて歌いたくなることがあります。


「うめぼしたべたぁ〜〜〜ぁ〜〜〜ぃ」


それでなくても私は、梅干が大好物なのであります。
一年中食卓から欠かすことがありません。
特に最近は、某梅干専門店から出ている「塩分8%のまろやか梅」というのに嵌まっていて、おやつ代わりに口に放り込んだりしています。(別に妊娠したわけではありません。念のため^^;)
昔ながらの酸っぱくて塩辛い梅干も、おにぎりに入れたりする分には好きですが、でもやっぱり今は、まるでフルーツのようにポイポイ食べられる減塩ものがお気に入りです。


でもスピッツの『うめぼし』で歌われている梅干は、私の想像では「減塩」ではなく、表面の皮が少し乾いた「強烈に酸っぱいヤツ」のような気がします。
そのとてつもなく酸っぱい一粒を、えいやっ!と丸ごと頬張り、顔を「うえぇ〜」としかめながら、口中に充満する酸味に耐えつつ歌うべき世界…のような気がします。


値札のついたこころ 枠からハミ出せない
星占いで全てかたづけたい


思えば私の心にも、いつも「値札」が付いてます。


なんだかんだ言って浪花商人の娘なもので、銭勘定は習い性になってるのかもしれません。
どんなものごとも、けっこう無意識に金銭に換算するクセがあって、かなり抽象的なものに対しても、「これは値打ちある」「値打ちない」が判断基準になる傾向大いにアリなのです。


(こんな計算高い私だから、どう血迷って気がオカシクなったとしても、歌舞伎町のホストクラブで超高額のワインを注文するようなことはありませんw …一昨日たまたま見たTV番組でやってましたけど、ホストに大金をつぎ込む女性って、あれはもれなくビョーキですね〜 あそこまで狂わせてしまう「心の空洞」の恐ろしさ、そしてそれにつけ込む強欲なホスト達の人相の悪さにはギョッとします〜)


・・・えー、そんなわけなので、もしかしたら私は、スピリチュアリズムに対しても、「これは値打ちある考え方やゎ。こうやって考えて生きたら儲けもんやゎ」と、けっこうガメツク対しているような気もします。
「死んだら全部終わり」と考えて生きているよりも、「死んでも終わらない」と考えて生きているほうが、何かと「おトク」感があるというか、「損はない」気がするんですよね。


ちょっと前にYahooの掲示板で、「スピリチュアリズムは所詮は“ままごと”」という意見も出ていましたが、私のソロバン勘定から言えば、「別に“ままごと”でもええやん」…といったところです。




あと、ほら、よく言うじゃないですか?
「ままごと」をやらずに大きくなった子供には、想像力や人を思いやる気持ちが欠けるとかなんとか・・
その証拠に、うちの息子が自閉症スペクトラムのアスペっ子かもしれない・・と心配して訪れた教育機関のカウンセラーさんは、どなたもこう質問されました。


「息子さんは、“ままごと”などの“ごっこ遊び”はされますか?」・・・と。
その度に、「いいえ、しません。しているのを見たことがありません。」・・と、答えたものです。


ここであえて強調しておきたいことは、そうやって「ままごと」などの「ごっこ遊び」に興味のない息子が、「想像力に欠ける」かと言えば、そうではありません。
確かに対人のツボを心得た「気配り・思いやり」はなかなかできないかもしれないけれど、彼には彼独自の世界がちゃんとあるわけです。


でも、一般的にこの社会で他人と関わりを持ちながらつつがなく生きる「フツー人間」を目指すんだったら、やっぱり「ごっこ遊び」の経験って、必要みたいです。
それに、小さい頃は「ままごと」で出発しても、その延長線上のはるか先には演劇や小説などの妄想を昇華させた芸術の世界が広がりもするだろうし、「ままごと」では「家族」だった模倣の単位を更に広げれば、学校でやってる学級会や生徒会になり、いつかは国政につながるのかもしれないし、案外バカにできないもんですよ。


まぁ、「ままごと」不要なうちの息子などは、それとはまた違う道を歩んで、彼なりの居場所をこの世に見つけていけばいいと思うんですが、私個人にとっては、「ままごと」は、今でも必要不可欠、心を楽しませ、生活にハリと実益を与えてくれる原点…だと言えます。
「値打ちあり」なんだよね、「ままごと」って、私には^^


(ちなみに、子供の頃、私の「ままごと」での役割は、なぜか「おとうさん」が多かったです。なんでだろ〜?)





・・・・スピッツの『うめぼし』から、大きく話が逸れてしまいました^^;;


話を戻して・・
『うめぼし』の歌詞中に、「星占いで全てかたづけたい」・・・とありますが、実は私、今年と来年、「天中殺」なんだそうです!


そんなワケなんで、絶対に「星占いで全てかたづけたい」なぁ〜んて思わないわけですが・・・ご親切にも職場の同僚がアドヴァイスしてくれた「天中殺の時の過ごし方」によれば、「学問や芸事に励み、精神世界のことを考えるといいらしいよ」…とのこと。


なーんだ、それなら、私、モノゴコロついた時からずぅーーーっとやってます(ニヤリ)
・・・ってことは、毎年が天中殺でもオッケーってことじゃないですかぁ〜


やっぱりなぁー子供の頃からピアノ習って、今もしつこく続けてて良かったなぁ〜 
仕事も一応某学問の研究だし、精神世界系にはそれなりにドップリだし、ホンマ、「値打ち」あることしてきた私って、なーんてエライんでしょぉー!!!




・・・と、本日のダイアリーも、根拠なく?自己を讃えて終わるのでありました^^




My Favorite Things


子供の頃に観て以来、私は『サウンド・オヴ・ミュージック』というミュージカル映画が大好きです。
これまで通算しても、いったい何度観たでしょうか。
数え切れないくらい繰り返し観ていますが、なぜか見飽きることのない作品です。
映画というものの魅力の全てが詰まっている、傑作中の傑作だからでしょうね。


さて、その『サウンド・オヴ・ミュージック』で歌われるナンバーの一つに、「私のお気に入り(My Favorite Things)」があります。
雷が鳴る恐ろしい夜、家庭教師のマリアが、子供たちに向かって、「不安になるときは、好きなもののことを考えましょう!」…と歌う曲です。


「好きなもののことを考える」


そうです!
これは、本当の本当に名案です!


私は今、別に不安でもなんでもないけれど、ちょっと仕事が忙しかったり、いささか疲れ気味ではあるので、そんな時はやっぱり、「好きなこと、好きなもの」のことを考えましょう




ではでは・・・というわけで。




なぁーんと、私ときたら、これまで一度もやったことがない、「NHKの朝の連続ドラマを録画して見続ける」…なぁ〜んてことをしてますっ!
我ながら信じられない行動ですよぉー
もともとあまりテレビドラマを見る方ではありませんしねー


今期のNHK連ドラは、タイトルが『純情きらり』。
ピアニストを目指してる女の子が主役の戦前・戦中の物語ですが、そもそもこの原案が、あの太宰治の娘である津島佑子作の『火の山−山猿記』であることが、これまで連ドラになどまるで興味のなかった私に、「見てみようかな」と思わせたきっかけでした。
小説の題の『火の山』というのは「富士山」のことで、舞台は山梨県ですが、なぜかドラマでは「富士山」とは無縁の愛知県に設定が変わっています^^;




それはともかく、このドラマを、わざわざ毎日録画して、夜中に欠かさず再生してる、その私の動機はなんなのか!?


うふふ・・・それはネ、西島秀俊さま見たさですよぉ〜〜〜


西島秀俊は、飄々とした青森出身の画家を演じてるんですが(この画家は津島佑子の父、太宰治がモデルなんだそうですが…)、それがもぉ素敵で素敵で・・
存在感のあるいい俳優さんだなぁ・・と、彼が画面に登場する度に思います。
あの髪の毛のぼーぼーぶりも、津軽弁の口調も、なんともいえない色気を醸し出す最上の演出になっていて、いやぁ〜〜ドキドキしちゃうんですよね〜〜
かくして、今夜もこれから今朝の放送分を、ニヤニヤ、デレデレ、楽しみに見る私なのであります!






ところで、「火の山」の「富士山」と言えば、少し前にある友人から薦められて読んだ、武田百合子の『富士日記』が、久々に出会った名著でした。


武田百合子は、武田泰淳の奥さんです。
武田泰淳といえば昭和を代表する文豪ですが、私にとっては『ひかりごけ』の作者…という程度の認識しかなかったものの、妻によって綴られた、富士山麓の別荘で日常生活を送る泰淳は、実にチャーミングな人柄です。
そして何よりも、百合子さんの文章が素晴らしい!
文章だけじゃなく、百合子さん自身が素晴らしい!


しかし『富士日記』から浮かび上がってくる、昭和30年代から40年代にかけての日本って、なんとバイタリティーに満ち溢れているのでしょうか。
それは同時に、百合子さんの「強さ」「逞しさ」の表れでもありますが、そんな彼女が、いかに夫の泰淳を恋していて、大切に想って暮らしていたかも、しみじみと伝わってきます。
ですから下巻の最後、日記の終わる部分での、病んだ泰淳が百合子さんや娘と交わす会話のあまりの軽妙さには、何年にもわたって彼らと富士の別荘で過ごしてきた(気になっている)私は、胸がつかえ、涙があふれるのを、暫く止められませんでした。




これは最近知ったことなんですが、なんでもわが最愛の作家・小川洋子も、『富士日記』の熱心な愛読者だそうです。
小川さんが、これを好きになるのは、私、よーーーく分かります。
あの人の感性に訴える世界ですもの。




「好きだな」…と感じるものって、連鎖するんでしょうか? ね?^^



波川海ブログへの返信


どんな分野でも、何か一つことを究めると、自ずと見えてきて、いつしか識別できるようになるものがあると思うんです。


それは、「本質」と「周辺」・・・です。




私はスピリチュアリズムに出会って、まだ日が浅いので、あまりエラソーなことは言えませんが、それでも私なりに思うところでは、スピリチュアリズムの「本質」とは「霊的真理」だと思います。
そして、「霊訓」は、シルバーバーチのものも含めて、あくまでも「周辺」なのではないか…と、思います。


ところが、世の中の多くの人は、「本質」ではなく「周辺」に心を奪われるんですよね。
なぜなら、「周辺」が「本質」を創っていると錯覚するからです。
本当は、「本質」があるから「周辺」が存在しているというのに、それが逆になってしまうのです。




ところで・・・「波川海ブログ」の海さんが、その記事で、「思ったこと くーくさんとゆうさんへ」と題して、くーくさんと私に対して問いかけられています。(その記事はこちら。) ←【※注】この元記事は波川海氏により6月4日に削除されました。


しかし、お返事をしようにも、あちらのブログではコメントを受け付けていらっしゃらないので、何もお答えすることができません。
「返事はいらない」「とにかく言わせて」…ということなのかもしれませんが、誤解されっ放しでもすっきりしませんので、一応ここに、「お返事」に相当する記事を書かせていただきます。


まず、こちらの文章に対するお返事です。

一つ目は、検証行為自体が近藤氏に対する不敬であるとして阻止したり非難することです。検証を反対する人たちがいるのと同時に、検証したい人たちもいます。検証しないのが自由であるのと同じように、検証することも自由ではありませんか?自分と考えが違うという理由で他の人の意見を認めないというのはいかがなものでしょうか。

近藤訳が素晴らしいと思うのも、あるいは疑問に思うのも、また些細な言い回しや用語にこだわるのもこだわらないのも、原文と比較したいと思うのも思わないのも、検証に興味をもつのももたないのも、すべて自由ではありませんか?


はっきりと申し上げますが、私は一度として、「検証行為自体」を阻止したり非難したことはありません。
私だけはなく、他の誰も、そんなことはしていませんでした。
私は、「検証行為」ではなく、検証の「内容」に異議を唱えましたが、それを海さんは、ご自分の脳内で、「検証行為を非難している」…と意味変換されたのでしょうか?


それこそこちらの意図を無視した歪曲であり、迷惑に感じます。


検証をするのもしないのも、当然各人の自由です。
そんなこと、当たり前です。
「自由意志」というのは「霊的真理」の真髄、いわば「本質」ではありませんか?
ですから、私も「自由に」反論しました。
海さんも「自由に」書かれました。
それでよろしいのではないでしょうか?


次に・・・・

二つ目は一つ目の問題にも関連していますが、近藤氏への敬意に関してです。波川海は近藤氏に対する尊敬心や近藤訳の素晴らしさを持ったうえで翻訳検証について述べています。建設的に批判をすることはあっても、いまだかつて批判のための批判や攻撃、罵倒などをしたことは一回もありません。


はたしてそうだったでしょうか?
海さんはともかくとして、川さんの近藤氏への記事の数々には、あまり「敬意」を伺うことはできませんでした。
最近になって、カテゴリ名を変更されたりして、以前のような「挑戦的な空気」を消してしまわれましたが、Yahooに「湧き水氏」として投稿されていた文面などから拝察しても、やはり「敬意」と素直に受け取れるようなものは無かったように思われます。(少なくとも私にはそう見て取れました。)




そして、実はこれが一番心外だったことですが・・・

最後に、今回の件で私が気づいたことですが、検証は審判(さにわ)であるということです。それならば、原文にしても訳文にしても、検証はむしろ好ましいことだと思います。既に心の道場さんが近藤訳を検証しているので、その見解を受け入れたらよいという意見をいただきましたが、受け入れるのも受け入れないのもまた自由であると思います。それは心の道場さんの検証であるので、もし自分で検証をしたいと思えば、その人自身が検証をしてもよいではありませんか?「これは本物だから検証してはいけません。信じなさい。」と、たとえニセモノであっても、そういうことは言わないでしょう。


「既に心の道場さんが近藤訳を検証しているので、その見解を受け入れたらよいという意見をいただきましたが」・・・とのことですが、くーくさんにしても、私にしても、「心の道場」さんに対しては、以前から相反する立場を表明しております。
そうした私達が、なぜ「心の道場の見解を受け入れろ」などといった意見を持つのでしょうか?
あるいはこれは、くーくさんや私ではない、第三者のご意見なのかもしれませんが、「くーくさんとゆうさんへ」という題の下で書かれた文章ですから、第三者の意見であるならば、そのように明記していただかないことには、あたかもくーくさんか私のどちらかが、そうした発言を海さんに対してしたことになってしまいます。


この点につきましては、是非とも早急に訂正して頂きたいので、宜しくお願い致します。




以上が、私から海さんへの「お返事」です。
もし、この内容に対して「返信」を下さいます場合は、私はこちらで「コメント」を受け付けておりますので、是非ここのコメント欄にお願いしたいと思います。




あと、もしよろしければ、ひとつだけ質問があります。


波川海ブログでは、最近は海さんと川さんだけが投稿されていますが、波さんは、今回の件に関して、どのようなお考えをお持ちなのでしょうか?



消えないし消さない


私は、心霊学研究所のペーパーバーチさんには、ちょっと特別な親近感を持っています^^


なぜなら、まず彼は、わが夫セレフィカさんと、誕生日が同じなのです。
年齢はペーパーバーチさんの方がセレさんよりも上ですが、月日は同じく5月26日!
そう、今週の金曜日なんですよね〜♪


親近感を抱く「理由その2」は、ペーパーバーチさん宅にも、我家にも、「自閉症スペクトラム」に分類される子供を授かっていることです。




ペーパーバーチさんとうちのセレさんの誕生日が一緒・・・というのは、面白い事実だと思います。
一見すると二人は、まるで違う性格、パーソナリティーのようですが、私の目から見ると意外に似ているところもあって、やはり何がしかの縁を感じます。


あと、私は、ひとつ大きくペーパーバーチさんを尊敬していることがあります。


それは、彼が、「消えない人」「消さない人」…である点なんです。




ネット上でスピリチュアリズムニューエイジ等の精神世界系を扱っている人の中で、ペーパーバーチさんほど確固とした存在感のある人を、私は知りません。


存在感としては、確かに「心の道場」にも強烈なものがありますが、しかしあの方々は、自分たちからの定期的な発信を一方的に続けているだけで、ネット上での「対話」は決してされませんから、私にしてみればテレビの画面をボーっと見ているのと大差ない現実味の無さや距離を感じます。


現在もっとも世間に名を知られている「江原啓之」さんにしても、そのサイトは、年会費を納入して会員にならなければ全てを閲覧できず、したがって掲示板などへの参加も勿論出来ません。
まぁどちらにしても、いま江原さんは多忙を極めていらっしゃるので、会員になったところで、なかなか「対話」はできないだろうと想像します。


しかし、同じようにサイト上で実名を公表し、霊的真理に人生を捧げているペーパーバーチさんは、常に「対話」の場におられます。
ご自分のサイトの掲示板は当然ですが、必要とあればYahoo掲示板のようなところにもフットワーク軽く登場し、様々な人と意見を交換することを厭わずにされています。


その「意見交換」での口調が、いつも単刀直入で歯に衣着せぬものだから、なにかと反発されることも多いわけですが、でもね、ペーパーバーチさんの凄いところは、どんなに相手から感情的に嫌われようが、周囲から批判されようが、そこから逃げないことなんです。




そもそも、ネット上から自分の姿を消すことなんて、簡単に出来るんです。


その証拠に、どれだけ多くの方が、「対話」「論争」の果てに形勢不利とみるやいなや「消えて」いったことでしょうか。
掲示板への参加を止める。
サイトの管理人であったなら、その管理を止める。
サイト全てを根こそぎ消して去る人もいました。
自分の投稿を全て削除する人もいました。


この世、現実に生きているこの世・・・から消えることは難しいことですが(安易に自殺する人は後を絶ちませんけど・・・)、ネット上から消えることなんて、朝飯前のカンタンさなんです。
そしてまた後で、何事もなかったかのように、別人の名前、顔で、再登場することもカンタンです。
実に安易に消えたり、消したりできるのがネットです。
出るのも入るのも自由自在、自分にとって都合の良い自分、理想的な自分だけ・・・を見せていられる世界、それがネットです。


かくいう私だって、自分の本名をネット上に明かしてなどいません。
どんな職業なのかも言ってません。
セレフィカさんは、本サイトSpiritual Cordでそれを公表していますし、読書会なども開いて現実の自分を晒していますが、私には、それをする気がありません。
実生活は実生活、ネットはネット・・・と分けて考えています。


なぜなら、ネット上のゴタゴタや面倒を、現実の生活には持ち込みたくないから・・なんですよね。
私は普通にズルイ人間なので、ネット上からは、いつでも「さよ〜なら〜」とトンズラできるように計らっているのです。




ところが、ペーパーバーチさんは違います。


先にも書きましたが、彼は、絶対に「消えない人」「消さない人」なんです。
どんなに自分に都合の悪い過去だろうが、どんなに他人から非難され中傷された発言や記事だろうが、それを「消さない」し、自分も「消えない」。


このことの重みを、いったいどれだけの人が理解しているでしょうか?


「あれは風車ですよ」


昨年、私はかなりの苦労をしてチケットを手に入れ、「この公演を最後にします」と言うシルヴィ・ギエムの『ボレロ』を観ました。


何度も何度も同じ旋律が楽器編成を変えて繰り返されるラヴェルの音楽にのせ、彼女の踊りは、まるで幻惑の世界を目の当たりにするかのように美しく、完璧で、あの日は客席全ての人が、まさに魂をふるわせるような感動に浸りました。


そして今日、私は、先日購入したまま未視聴だった、シルヴィ・ギエムのインタビューや舞台、練習風景を追ったDVD作品『美と神秘のプリマ シルヴィ・ギエム [DVD]』を、ようやく見ました。
これがまた言葉にできないほど素晴らしく、画面狭しと踊る彼女の動きを目で追いながら、何度となく「おぉ〜」と驚嘆するやら溜め息をつくやら…。


このDVDでは、古典バレエのレパートリーから、いかにも彼女らしく、『白鳥の湖』黒鳥のヴァリエーションや、『ドン・キホーテ』キトリのヴァリエーションなどを、いとも軽々と、しかも完全無敵のテクニックで情感たっぷりに踊っています。
中でも『ドン・キホーテ』のキトリは、それはみごとで、眩しいばかり!
こんな凄いキトリ、私はついぞ観たことがありません。
圧倒されてしまいました・・・。




それはそうと、『ドン・キホーテ』って、面白い話ですよね〜
なんでも「聖書」の次に出版部数を誇るほどの大ベストセラーだったそうですが、今読んでも、なかなか楽しめる小説です。


そういえば昨年2005年は、『ドン・キホーテ』初版発行から400年…という記念の年だったんですが、日本ではどちらかというと、この小説よりは、「安売り」やら「買収」やらで有名な企業名の方が数倍注目されていたので、あまり話題にもなりませんでした^^;


1605年にスペインで発表された、セルバンテス作『ドン・キホーテ』の主人公は、本を読みすぎてアタマがおかしくなってしまった老人、キホーテさんです。
「ドン」というのは、貴族に付く敬称なんですが、さて、そのドン・キホーテは、本(「騎士道物語」)の架空の世界と、自分が生きている現実の世界の境界線がつかなくなってしまい、とうとう自らを「中世の騎士」だと思い込んじゃうんですよね〜
そして思い込んじゃっただけでは済まず、従僕のサンチョパンサを連れ、痩せた馬にまたがって旅に出ちゃうわけです。
ドン・キホーテドン・キホーテなら、家来のサンチョパンサもまたかなりの「おバカキャラ」で、なにかと嘲笑の的になるんですが、そうした二人の珍道中エピソードの中でも有名なものが、先述したバレエにも脚色された「宿屋の娘キトリを、夢の中のドルネシア姫だと勘違いする話」・・・と、「風車を巨人の怪物だと思い込んで戦いを挑む話」・・・なんですね。


まぁフツーに考えるならば、「風車」を「巨人の怪物」だと思い込む・・・なんてことは、非現実的も甚だしいバカな話です。
400年前の人間は、こんなしょーもない話を面白がっていたのか・・・と、私も最初に『ドン・キホーテ』を読んだ時には思いました。


でも、最近は、あらゆる人の心の中に、「風車」はあるのではないか?・・と思うようになりました。
そう思ったときから、『ドン・キホーテ』は、私にとって、ただの「おバカ話」ではなくなっています。




ところで、波川海のブログでは、あいかわらず川氏が、一方的に自論を展開されています。


川氏は、ハンドルネームがヨシさんだった頃からそうなんですが、どうもご自分で一方的に思い込んだことが、そのまま「現実」にすりかわってしまうようなところがあって、これまでにも何度か「仮想敵」を作り、それに批判を加える・・・ということをされてきましたが、あいかわらずなんだなぁ・・・と思います。
本当は、こんなことは波川海ブログのコメント欄に書きたいところですが、なにしろあちらでは一切のコメントもトラックバックも受け付けてはいないので、仕方なくこんな自分のブログに書いているわけですが、やはり、さっき書いた『ドン・キホーテ』の話じゃないですけれど、「巨人の怪物」でもないのに、「オマエは巨人の怪物だ」と言われた人は、それなりに迷惑なんですよね・・・。
今回の場合は、シルバーバーチ翻訳者の近藤千雄氏と、心霊学研究所のペーパーバーチ氏が標的になっていますが、川氏本人は、自分は正しい、自分は真理を語っている、という一念にかられていますので、何を言っても通じないどころか、ますます意固地になられているようです。
残念なことだと思います。






ドン・キホーテの風車」は、実は誰の心にも存在するのでは?・・・というさっきの話に戻ります。


私にとっては、「母」です。
あと、自分が「女性として生きていること」も、そうかもしれません。


私はよく、自分の頭の中だけで「被害者意識」やら「独善的な正義感」などを作り上げ、その妄想に憤慨してしまうことがありますが、そんな時はよく、自分自身に、「ちょっと、ちょっと、ゆうさん、あれは『風車』ですよ〜、『風車』に文句つけてどーすんの?」…と言い聞かせ、「落ち着け〜落ち着くんだぁ〜」とクールダウンするように努めてはいます。
それが上手くいくこともあれば、なかなか思うように感情がコントロールできないこともありますが・・・。


人間、いろいろ生きてくると、やっぱり様々な「ドン・キホーテの風車」を抱えますよね。
それは仕方のないことだと思います。
それだけ苦労が多いってことですから。
苦労が多いってことは、それだけ得られるものも多いってことですしネ。




ただ、「風車」の身になって考えれば、「風車」なのに「巨人の怪物」にされてしまったら、やっぱりその「風車」は、気の毒ですよ。
「風車」は「風車」として、その仕事を一心にやってるわけですからね。

原書で読め?


いよいよ明日ですよ〜!


・・・何が?って、あのハリー・ポッターと謎のプリンス日本語訳が発売されるのが、明日5月17日なんですよ〜^^




うちでは、これはもうとっくの昔にAmazonに予約済みですので、あとは本の到着を待つばかりなんですが、いや〜楽しみ楽しみ♪


セレフィカさんも息子も家族中が読み終わるまでは、「ネタバレ防止の為にハリーポッターに関する話題は御法度」という、読んじゃった人にはウズウズむずむずな「家庭内ルール」まで確立されている我家であります!
さあ、今年は誰が「最初に読む権利」を獲得するのでありましょーかっ!?




ちなみに、『ハリーポッター』シリーズの「原書」は、うちには全巻揃ってます。
シルバーバーチ』の原書は注文しようともしない私が、『ハリーポッター』のオリジナル本は、ちゃっかり買っちゃうんですね〜


なぜか?


そりゃ話の先が知りたいからに決まってるじゃないですか〜♪^^
オリジナル本が発売された時には、当たり前のことながら日本語訳なんか出てないわけですから、ストーリーの先を知りたければ「英語で読む」しかないわけです。


・・・と、そうは言っても、今回の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』に関しては、実は私はまだ原書を読んでません。
英語版は本箱に「積読」状態で突っ込まれたままです^^;
なにしろこのところ仕事上で読まなければならなかった本も大量にあった上に、いろいろ忙しかったもので、「そのうち」と思いながら、結局手に取れずにいたら、とうとう「日本語翻訳版」発売になってしまいました。


でもね、まぁいいです☆
こうなったら「日本語版」で読むので^^
だって、やっぱり日本人ですから、どんなに英語は「得意です」「喋れます」って言ったって、所詮は母国語のように速くスイスイとは読めません。
勿論オリジナルの英語には、オリジナルでしか味わえないニュアンスがありますが、でもなぁ、私は別に『ハリポタおたく』ではないし、要は話の筋が分かればそれで満足なもので、日本語で読めるなら、それほど有難いこともありませんよね〜


しかし、これは毎度のことですが、『ハリーポッター』の翻訳本が発売される毎にネット上をにぎわすのが、訳者である松岡佑子氏への非難ゴーゴーです^^;
やれ「誤訳」だ「歪曲」だ「意訳がすぎる」・・・かと思うと「直訳しすぎている」と言う人あり、とにかく毎回わきおこる一部「おたく勢力」からの非難の嵐!
やはりそれぞれに思い入れの濃くなる海外作品には、こうした翻訳叩きは付きものなんですね。
そういえばトールキンの『指環物語』だって、その映画の「字幕」をめぐって、「誤訳だ!」騒ぎがありましたっけ・・


うぅ〜ん、あまりにもファンの多い作品の翻訳をするのって、実にタフな仕事ですなぁ・・
気の小さい私には絶対にできそうもないゎ。




でもね、大方の人は、翻訳者には凄く感謝してると思うんですよね。
特に『ハリーポッター』に関して言えば、子供たちは、翻訳本があるから「ハリー」に出会うことができたんですものo(*^▽^*)o
この素晴らしい作品が日本語になったおかげで、どれだけ多くの子供たちが、「ホグワーツの寄宿舎」に想いを馳せ、「ハリーの背負った宿命」を共に乗り越え、夢や勇気を与えられてきたことか!






ところで、近頃巷では(…ってYahoo掲示板のことなんですがネ^^;)、『シルバーバーチの霊訓』における「近藤千雄氏の翻訳」が批判の槍玉に上がっています。


また、以前ここが「ゆう&セレフィカ・ダイアリー」だった頃にはリンクしていた『波川海』さんのブログでも、主に「川氏」が、近藤訳の「問題点」を列挙しつつ、

私たちが入手できるシルバーバーチの言葉は完璧で完全なものであるという認識ではなく、不完全なものであるという認識を持ち、健全な懐疑精神で読んでいく必要がある。したがって、そのような姿勢から、スピリチュアリズムシルバーバーチ)が最も優れた思想だという排他性がなくなり、謙虚に他の思想・宗教にも耳を傾ける姿勢が自然とできるようになる

・・・という主張をなさっています。




うぅ〜〜ん、正直言ってですね・・・私は「あほくさ」と思うんですよね・・・。


Yahoo掲示板の湧き水氏こと、川氏は、「心霊学研究所」や「Spiritual Cord」の掲示板では「ヨシさん」でしたので、私も非常に親しくやり取りをさせていただいた過去があり、ネット上ではとても身近に感じている方なんですが、しかし、今回の一連のこの主張には、どうも「付いていけない」ものを感じます。


まず、川氏が述べておられる「シルバーバーチの言葉は完璧で完全なものであるという認識」は、いったい、「どこ」の、「誰」の認識なのか・・・という点です。
あの「心の道場」のようにシルバーバーチを教義化してガチガチに信仰してる人たちを除いて、他にいらっしゃるんですかね〜?


スピリチュアリズムシルバーバーチ)が最も優れた思想だという排他性がなくなり、謙虚に他の思想・宗教にも耳を傾ける姿勢が自然とできるようになる」・・・というお考えにしても、私の知る限り「排他性」が感じられるスピリチュアリストと言えば、やっぱり「心の道場」以外に「該当者なし」なんですけども・・・


そして、そうした「心の道場」の歪みについては、あの有希さん掲示板騒ぎ以来、ここ数ヶ月でかなり明らかにされ、かつてのような「窮屈さ」は感じられなくなっているんですが、だというのに、なぜ今さら、わざわざ近藤千雄氏の訳を云々しなければならないのか、その「意味」も「意義」も、残念ながら私にはわかりません。




そもそも私は、スピリチュアリズムについて「学術的」にあーだこーだ仔細に論じ合うことの、その「目的」が見えません。
いったいそれをして、どうしたいのか、それがわからないし、時間の無駄のような気さえします。
少なくとも私は、そんな机上の議論に加わる気持ちはまったくありません。
そんな暇があったら、もっと積極的に、リアルな自分の人生を生きることを考えます。


問題は自分の周囲に山積してるんです。
シルバーバーチを「苦の視点」で読もうが読まなかろうが、実際の人生に「苦」は散りばめられてます。
それと同時に「喜び」や「美」も溢れています。
そのどれを掴み取り、吸収して生きていくかは、それぞれの人生の中でしか答えは出ないはずです。
霊訓をいくら読んだって、たとえ辞書を片手に「原書」で読んだって、それが何になるのでしょう?




ともかく、私自身は、近藤千雄氏には、感謝しています。
あれだけ大量の「シルバーバーチ」を、日本語でスイスイ読めるようにして下さったことは、本当にありがたいことです。
翻訳者の「思想」が混入して「歪曲」されている・・・というのがもっぱらの批判対象のようですが、そもそも「翻訳」って、そういうものなんじゃないですか?
それはもう仕方のないことでしょ?
一字一句にこだわって読む方がオカシイんですよ。




そういえば、私の愛する小川洋子さんの作品は、フランスで人気があって、何冊も仏語に翻訳出版されてますが、厳密に言えば、小川さんならではの「日本語の手触り」「言葉の透明感」みたいなものは、仏語になった途端に失せますよね・・・
でも、だからといって、仏語になったら小川作品の輝きが損なわれるか・・・っていうと、そんなことは全然ないわけです。
ちゃんとフランス人は、作品の「内容」に感動してるもん!
それでいいんじゃないの?
ハリーポッター』に世界中の子供たちが感動しているのも、それは「内容」に対してなんだし。




だいたい、万が一翻訳者が「悪魔のごとく歪曲」しようとしたにしても、「内容」って、そうは変えられないものだと思います。
シルバーバーチ』に限って言えば、同じようなことを何度も何度も繰り返し述べていることも多いし、これらから総合的に「内容」を理解した結果、読者は「感動」してるわけですよ。
いったいどこの誰が「近藤先生の思想が混じった一字一句」に感動させられてるのか知りませんが、そういう仮定で訳者を批判するのは、やはりどう考えても間違ってる・・・と、私は思ってます。