苦手なこと


私は、「体育」が大の苦手でした。


学校の時間割表にある科目の中で、得意な順に並べていくと、やはり一番上位にくるのは“好きこそものの上手なれ”の「音楽」で、次に「英語」「世界史」…という感じになるのですが、「体育」は、どう考えても最低中の最低でした。


ところが、私が通っていた学校には、ほぼ毎日のように「体育」の授業がありました。
グラウンドは広く、体育館は二つ、室内プールまであって、「ここは体育学校かい?」と毒づきたくなるほどの運動施設の充実ぶりで、体育教師も、やたら強面が揃っていた気がします。




「体育」の授業の何がイヤだったといって、まず、「短い休み時間に大急ぎで着替えなければならないこと」…がイヤでした。
その前の時間の授業が終わるやいなや、体操服の入った袋を持ち、大急ぎで体育館のロッカー室に向かい、女子生徒がひしめき合う混雑の中、息せき切って着替える、あのせわしなさが不愉快でした。
しかも梅雨時分ともなれば、狭いロッカー室の臭気ときたら!


授業のはじめに必ず行なった準備体操も嫌いでした。
先生の「ピッ、ピッ」と吹く笛に合わせて、クラスの全員がいっせいに同じ動きをする、それがたまらなく滑稽に思えましたし、何より、笛の音が耳に険しくて、気持ちは暗くなるばかり…。


次は、お約束のランニングです。
グラウンドを何周かするわけですが、あぁ〜もぉ〜これが辛いんです。
なにしろ私は、10代後半まで、ちょっと炎天下で立っているだけでも貧血で倒れるほど虚弱だったので、このランニングが終了した段階で、すでにクタクタに疲れているのが常でした。
ところが、こんなのはまだまだ序の口の準備運動で、その後いろいろ球技や器械体操等に取り掛かったわけですが、私ときたら、球技はどれもこれもダメ、器械体操の類はほとんど恐怖に近く、何をしようが「楽しい」なんて思えたためしがありませんでした。


やっとのことで授業時間が過ぎると、今度はまた「着替え」です。
汗ばんだ身体の生徒がドヤドヤとロッカー室に向かい、狭い中で湿った体操服を脱ぐ、その気持ちの悪さ。
それをグッとこらえて制服に戻り、また走って教室へ…。


「あぁ〜あ、学校生活から『体育』なんて授業はなくなればいいのに…」
私は、いつもそう思ってました。
「『体育』のかわりに『数学』が増えたとしても、まだその方がマシ」…とすら思ってました。
数学は、体育の次に苦手で、全然好きになれない科目でしたが、それでもまだ余程ガマンができると思えるほど、とにかく私は「強制される運動」が苦痛だったんですよね…。




大学生になって、これでやっと「体育」から解放されるとおもいきや、なーんとなんと、大学にすら「体育」は必修単位として存在しておりました!


「まったくなぁ〜、なんで日本の学校って、こんなに『体育』が好きなんだろう?」…と、腹立たしく思いましたよ〜
「いったい私が専攻している分野と「体育」に何の関係があるんだよーっ!」なんて文句たらたらで、どうやったら単位を落とさず、できるだけサボることができるか…ということで、入念に出席日数を数え、どうにかこうにか切り抜けたような具合でありました。



ところが、ところが、あぁ〜ところが、そんな私の目の前に現れた「ダサダサ青年」セレフィカさんときたら、「ぼくは、一番好きな科目は『体育』なんですよ〜」なんて言います。
「え? 『数学』じゃなくて?」と聞く私に、「まさかー! ぼくが一番好きなのは『体育』ですよ! だって楽しいじゃない!」と、それはそれは爽やかにおっしゃる・・・。


思えば、これが私の間違いの始まりでありました・・。


自分が「苦手」なものが「得意」な人というのは、輝いて見えるものです。
ましてやセレフィカさんときたら、私の「2大苦手教科」である「体育」と「数学」の両方において、目を見張るばかりの優秀さなのです。
「サッカー部の部員よりサッカーが上手かった」
「全校マラソン大会では上位入賞者の常連だった」
なんて話を聞くと、目の前にいる髪ボーボー、年中野暮なチェック・シャツの彼が、いつしか凄いイケメンに脳内変換されてます!
そして目が眩んだまま結婚してしまったんですから、「苦手意識」というものは、人から冷静な判断力を確実に奪いますねーっ!(゚∀゚)






話をもとに戻します。




私は、とにかく「体育」が苦手でした。
強制的に運動をさせられるのが、イヤでイヤでなりませんでした。
大人になって良かったと思えるのは、日常にああした時間がなくなってくれたことです。


他に苦手なことといえば、「集団行動」で、これについては以前から何度もここに書いています。
たぶん、「体育」が嫌いであることの原因もここに根ざしているような気がします。




そしてもう一つ、実は「酒席」が苦手です。


なぜなら、私はアルコールが一滴も飲めないからなんです。
体質的に、全然ダメなんですよね。
世の中には「美味しいお酒」が沢山あるというのに、それらは、私にとっては無いも同然の未知の飲み物です。


そのため、「酒のつまみ」と言われても、いったいどんな料理がそのお酒に合うのかが、実体験としてわかりません。
一応「知識」として、赤ワインにあうもの、日本酒にあうもの、ビールにあうもの・・・と了解してはいますが、「どう合うのか?」が分からないんです。


あと、飲めないので、当然いい気分の「酔っぱらい」になった経験もなく、そのせいで、夜遅くなってしまったときの駅や電車の中でたまに遭遇する「泥酔した人」が、怖くてなりません。


そんなわけですから、私にはいわゆる「水商売」の仕事は絶対にできません。
ホステスさんなんかやらしても、その無能ぶりに呆れられて、即刻クビでしょうね〜^^;




あと、苦手なことと言えば、「通訳」を頼まれることです。


私は海外で育った経験があり、英語ともう一ヶ国語が話せますが、そのために、時々「通訳」を頼まれることがあります。
でも、これが実はとてもとても「苦手」なのです。


なぜって、その国の言葉が話せることと、それを「翻訳」「通訳」できることは、根本的に別の能力を必要とするからです。


言葉には、その言葉独自のイメージが含まれていますし、使い手それぞれの「クセ」もあります。
プロの翻訳家や通訳の方というのは、それらを総合的に瞬時に判断して、その言葉に該当する別言語の言葉に置き換えていくわけですが、私にはとてもじゃないけれど、そんなワザはありません。
話せればできる・・・なんてものじゃないんですよね、「翻訳」も「通訳」も。
ですから、これらを生業にされている方々には、おのずと深く敬意を抱いています。




壊される夢


怖い夢を見ました。
しかも妙にリアルで、目覚めてからも、それが「夢」であることになかなか気がつかないほど、真に迫る夢でした。




こんな夢です。


場所は、現在住んでいる家でした。
私は、来客があるので、家中を掃除していました。
テキパキと能率よくそれを終え、あとは自分が着替えるだけ・・・と思いながら玄関を見ると、さっき掃除したばかりだというのに、そこにはシュレッダーのダストボックスをひっくりかえしたような紙片が、大量にばら撒かれています。


私は、それを息子の仕業だと、何の疑いもなく思いました。
「せっかくキレイに片付けたのに、どうしてまたこんなゴミを撒き散らすのよ!?」と、叫びましたが、なぜか当の息子は現れません。


来客の予定時間も迫っているので、私は必死で紙くずを掃除しました。
ところが、その後部屋に戻ると、今度は部屋の中が紙くずだらけです。
私は息子の名前を大声で叫び、「どうしてこんなことをするのよ!?」と、地団太を踏んで怒りましたが、やはり彼は姿を現しませんでした。


その後、どういうわけか場面が変わり、私は車を運転していました。
快調にスピードを出して、なかなか気持ちのよい景色の中を走っていました。
ところが、信号で停車しようとしても、ブレーキがききません。
私は必死で右足を踏み込むのですが、フカフカとした感触しかなく、まったく減速しません。


「困ったなー」と思っているうちに、どうしたわけか、私は自分の家に帰っていました。


玄関を開けると、さっきと同様に床一面に紙くずが散らかっており、私は「あー、まただ・・・」と苦い気持ちになりました。
そして更に部屋に入ると、なんと、私の「宝物」であるピアノ(父に買ってもらったグランド・ピアノです)が、滅茶苦茶に、粉々になるまで壊されていました。


私はまた、息子の名前を叫びそうになりました。


ところが、夢の中で、私は考えたのです。
「いくらなんでも、私が何よりも大事にしているピアノを、息子が壊すはずがない。なんで私は、とっさに息子の所為にしようとしたんだろう? 息子が悪いと決め付けたんだろう?」
私は、息子に対する「疑ってごめんね!」という思いと、破壊されつくしたピアノへの「なぜ?」という思いで、頭の中が混乱を極め、その場にへたりこんで泣きました。


・・・・・・・・・・・・・・・・




どうやら泣いているうちに、私は目が覚めたようでしたが、まだ夢の悲しみを引きずっており、現実に自分が泣き叫んでいたような嗄れた感触が、喉に生々しく残っていました。


私は起き上がると、いてもたってもいられず、ピアノの部屋を見に行きました。
大学入試合格発表のその日に、父が「ご褒美」に買ってくれたピアノは、そのまま無傷でそこにありました。
夢の中では、あっちこっちに無残に飛び散っていた鍵盤も、ちゃんとお行儀よく蓋の下に並んでいました。


次に息子の部屋を見ると、彼は気持ち良さそうに寝ていました。
面白いもので、こんなに大きくなっても、眠る時は、赤ちゃんの頃と変わらない顔で寝ています。
もの凄く無防備な寝顔です。




そういえば昨日、地下鉄に乗っていて、前に赤ちゃん連れのお母さんが座ったとき、その4ヶ月くらいの赤ちゃんの可愛らしさに、なぜか目頭が熱くなってしまいました。
うちの息子にも、こんな頃があったなぁ・・・私にもこんな頃があったなぁ・・・と思うと、見ず知らずの親子なのに、自分でも恥ずかしいほど感情移入をしてしまい、涙がこぼれそうになりました。




ぶっちゃけた話、最近の私は、四六時中、息子にイライラしていました。
なにしろ、私がどんなに一所懸命になって息子のために行動しても、大抵の場合、それは無駄になるか、裏切られるか、更に問題を生むか・・・のどちらかなのです。
とにかく彼は、私の「思い」には、なかなか応えてくれません。


「この子は、私にあえて敵対するために生まれてきたんじゃないの?」


「私自身は、子供の頃、あれほど親につかいたくもない気をつかってきたというのに、なぜ自分が親になったら、その子からは、なんら報いられることがないんだろうか?」


・・・・そんな考えが、胸に湧き上がってくると、それを否定できないまま、ずるずると不愉快な気分に支配され、「子供なんか産むものじゃないわ。子育てなんてするものじゃないわ。あるのは苦労ばっかり。失望ばっかり。」と、ぶつぶつ心の中で呟くことを止めることができません。




アスペルガー症候群の子供は、インディゴ・チルドレンです♪ 特別な存在なのです☆ 敬意をもって接しましょ〜 心からの愛情で包みましょ〜』・・・な〜んてお気楽に主張する本やサイトを見ても、確かに息子がもう少し小さい頃は、「そうかも?」なんて、まるで「溺れる者藁をも掴む」の気分ですがりたくなった時期もありましたが、今はむしろ「ふざけんなよっ!」「『10歳以下のこどもの90%はインディゴ』だって? ボケた話はいい加減にしてくれっ!」・・・と、日々地味に関わっている親には腹立たしいばかり。


『子供が親を選んで生まれてきます』というスピリチュアリズムの常識(?)にしても、「あーそーですか。あなたが私を選んだんですか? そりゃまたこっちには迷惑な話ですねー。なんで私を選んだの? なんか私に恨みでも? 私を困らせてやろうと思ったの?」・・・などと毒づきたくなることも日常には多々あるわけで、そう簡単に『愛で包みましょう』のできない未熟さが私には充分すぎるほどあるわけです。


そう。
要するに、荷が勝ちすぎている。
私には重過ぎる。
できないよ〜 もういやだ〜〜と駄々をこねて、全部放り出して、きれいさっぱり蒸発したくなることもあるわけです。
不器用なセレフィカさんには悪いけど、この父子はある意味似たもの同士なんだし、それなりに上手くやっていけるでしょ?
セレさんは、息子のことが、私のように逐一「癇に障る」こともないようだし、自信を喪失することもない人だから、なんとか育ててくれるでしょ?
じゃあねー よろしく〜〜 頑張って子育てしてね〜 バイビー!(゚▽゚*)ノ~~


    〜〜〜なーんて、やってみたいもんだよ・・・(●´・△・`)はぁ〜






・・・・しかし・・・・・


地下鉄車内で、たまたま前に座った母と子に目頭が熱くなった夜、あまりにゾッとする夢を見たのは、なぜなのでしょうか?


徹底的に壊されていたのが、私の大切なピアノだったことには、何か意味があるのでしょうか?
それを、一瞬でも、息子の仕業だと思ったのは、どうしてでしょうか?
さらに、夢の中で、そうした息子への疑いを持ったこと自体に後悔し、号泣したのはなぜでしょうか?


自分を振り返るためにも、暫く、この夢のことは忘れてはいけないような気がします。






.

わが前世は★たぶん男


なんら根拠はありませんが、自由気ままに、わが「前世」を想像してみたいと思いますっ


・・・とは言え、まぁ「根拠はない」ものの、自分のこれまでの人生で、ついついやってしまう行動のクセ、考え方の傾向・・・などを検証してみて、「きっとそうに違いない」とかなり強めに思っている事柄なのです^^;
死んであの世に逝ってみたら、想像していたのとは「全然違ったじゃ〜ん」となるかもしれないし、「うわぁ〜大当たり!」と手を叩くかもしれないし、現時点では所詮夢物語のような「思い込み」の類ですが、でも、こういった想像をするのは楽しいではありませんか?




・・・さて、前々からここに何度も書いてますが、私は前世に一度は「ユダヤ人」を経験していると思うんです。
なぜなら私は、かなりユダヤ人風味の強い性格(要するに財テクと教育が好き)ですし、何よりも、あの「ホロコースト」に対して、幼い頃から尋常ならざる興味と憤りを感じてきました。


加えて、ユダヤ人としてではなくても、ヨーロッパでの前世が多かったのではないかとも思います。
なぜなら、欧州圏言語のマスターにあまり苦労を感じないからです。
また欧州の某都市に関しては、「ここは前に来た」と感じる場所が多いんです。


そして、これはたぶん一度もブログには書いたことがないと思いますが、私は、自分の前世のほとんどを、「男性」として過ごしていたのではないか・・・と感じるのです。




今回の人生で私は、子供の頃、「女の子」に生まれてきたばかりに祖父母や母から、あまり大切にしてもらえなかった、尊重してもらえなかった・・・という経験をしています。
生まれ育った家は格式の古い旧家で、どんなに優秀でも所詮「女は女」という価値観が支配しており、結果、10代が終わる頃までの私は、「なぜ女なんかに生まれてきたんだろう」と思わない日がありませんでした。


ティーンエイジャーの頃の私は、「女の子らしい服装」も頑なに拒否していました。
年中Gパンと開襟のシャツ姿で、スカートなどはめったに穿かず、ましてや可愛らしいレースやフリルなどとは無縁でした。
それでもたまに改まって外出せねばならないときなどに、親から「清楚なワンピース」だの「訪問着」だのの着用を強制されると、それを着ている間じゅうイヤでイヤで、1分でも早く帰宅して、いつものGパンに着替えたいと思っていましたし、げんにそうしていました^^;


女性の生理についても、長く受け入れられませんでした。
「女の子なんだから、そういうものなのよ。赤ちゃんを産む準備をしているのよ。」・・・といくら言われても、納得がいきません。
自分の身体で起こっていることとは思えないというか、自分には必要がないことのような気がしてならないというか、とにかく違和感ばかりが先にたちました。
不思議なのですが、自分に「子供がいる」という状態は、いくらでも想像ができるのに、自分が「子供を産む」という状態は、どうがんばっても具体的な像が結べませんでした。
・・・こういうのって、多くの女性が同じように経験する感情なのでしょうか?


少なくとも、私の周囲にいた同性の友人たちは、自分が「女性であること」を、素直に受け入れているように見えました。
「女性であること」に苦しんでいるようには見えませんでした。
でも私は、女性であることが居心地悪くて堪らなかったのです。


・・・というわけで、私は、自分の前世は「男性だったことが多い」と思ってます!(わはは)
そして今回は、「女性であること」から、いろいろ学んでいる人生なのだと思っています。






これは余談ですが、幼い頃から「女の子」であることにさんざん悩んだ為か、ただ「男性に生まれてきただけ」で「男だから威張る」傾向のある男性には、向ける視線がいささか冷ややかなんですよね〜〜〜私・・・


この際はっきり言わせて貰うと、この世の男性の90%は、「男」だというだけで虚勢をはって生きてますよね。
だから、女性から少しでもバカにされたりすると許せないんです。
根底にそういう意識が流れているように思います。
そして、涙ぐましいばかりに「俺は男だ」というプライドを守りながら、実はとても窮屈に、そのシバリに耐えながら生きています。


ですから、ちょっとアタマのいい女性は、男性をバカにするような言動をしませんよね。
怒らせても面倒なだけだから、適当に譲歩して生きてます。
でも大多数の男性は、そうやって女性から譲歩されている事実に気付きさえしません。
「男の俺様は、男であるということを頑張っている。だから偉い。」と、ごくフツーに信じて生きています。




私は、結婚してもう長くなるけれど、いまだにセレフィカさんのことが、もの凄く好きです。


なぜなら、彼には、「俺は男だから偉い」といった感覚が、まるっきり欠落しているからです。


セレフィカさんは、私が知る限り、ごく少ない、「男」であることに縛られていない男性の一人です。
お蔭で、彼と一緒にいると、私は心から安らぎます。
なぜなら、彼が「男」を自分に強いていないことで、私も、「女」であることや「妻」「母」であることを、精神的に押し付けられずにすむからです。
それがお互いにとって、どんなに楽で自由かわかりますか?


セレフィカさんを嫌っているわが実家の母は、彼を「頼りない」と言います。
でもねー、なんで男だからって、夫だからって、「頼り」がなきゃだめなんですか?
男らしく威張ってなきゃだめなんですか?
「一家の大黒柱」顔をしてなきゃだめなんですか?
「妻子は俺が守る!」とか宣言しないとダメなんですか?


変ですよ、そんなの。


そもそもうちはね、車を運転するのは、私の役目です。
だって、車の運転、どー考えても私の方が上手だから!
車の種類や性能についての知識も、私の方があるから!
だから息子も、小さい頃から、「車はお母さんが運転するものだ。その方が安心感がある。」と思って育ってます^^


「優しさ」に関しては、もぉ断然、軍配が上がるのはセレフィカさんです。
息子も、私よりは彼に甘えてますもんね・・・
「パソコン」や「数学」に関することでも、そりゃー勿論頼りになるのはセレフィカさんです。
私なんか、こっち方面では、ものの役に立ちませんから。


セレフィカさんの凄いところは、自分ができないことは、ごく自然に、「ごめん、ぼく出来ないよ」と言えるところです。
たぶんそれは、ぐっと根底で自分に自信があるから言えるわけで、その自信の根拠は、けっして「男である」ことなんかじゃないんですよね。




ここ数年、スピ界の掲示板などを閲覧してきて思うことは、精神世界に興味があるような男性でも、意外と「自分が男性であること」に囚われてる人は多いんだなぁ〜ってことです。
別にそれが悪いとは言いませんが、そういう感覚の古さや固さって、ただネット上の文章でさえ、ちゃーんと出るものだから面白い・・・と、いつも思います。

生まれ変わったら♪


これは、私の夢です。


もし、今度またこの地球に生まれ変わって来るなら、私は「男性」として生まれてきたいのです。
そして、男性として生まれてきたら、「歌」を歌いたい。


バンドのヴォーカルをしてもいいし、合唱団に入ってもいいし、とにかくなんでもいいから「歌」を歌う男、声で「ハーモニー」をつくることを楽しむ男・・・として生きたいと、思うのです。




・・・そんなに「歌」が歌いたいなら、今、ここで歌えばいいんですけど・・・でもね、私、歌の上手な「男性」になってみたいんです!
すごく憧れるんです!
自分がもし男性で、歌がうまかったら、どんなに素敵だろう・・・って。
そういう自分を想像するだけで、なんだか嬉しくなってしまう・・・




昨年くらいから、ずっと家でセレフィカさんや息子にも言い続けて、随分笑われたんですが・・・


私の「来世の夢」プランはコレだっっっ!!!・・・ってことで、ここに発表してしまいます^^;




【プランその1】


男の子として生まれてきたら、高校は、絶対に「合唱」のクラブ活動が盛んな高校に入る!
合唱コンクールで全国大会優勝を狙ってるような、高校生活を合唱に捧げてるような、一日に何時間でも歌ってるような、そんなクラブのある高校に入学します!
もちろん、男子校なんかじゃなくて、共学校で、合唱クラブも混声合唱^^
歌いたいのは、できればテノールのパートで、当然私はすごーーーーい美声に恵まれている!
しかも、よくいる「合唱おたく男」のように、キモ系が入った感じではなく、ちゃんとジャニーズ系でありたい!(ここは是非実現させたいっ!!!)
すると自然の成り行きで、クラブ内の女子にモテモテだ!
あぁ〜〜〜最高だなぁ〜〜〜


・・・で、私は、どんなに女子にモテても浮ついたところはなく、ひたすら歌うのです。
夏休みも大真面目に合宿なんかしちゃって、曲の内容やその表現の方法をあーでもないこーでもないと考えたり議論したりして、人生をそれ一色にして歌う毎日・・・。


うぅ〜〜〜考えただけでも目頭が熱くなりますっ!


秋には、いよいよ合唱コンクールの全国大会があり、その舞台で燃焼しつくして、演奏後に自分たちに感動して男泣きしてみたいです。
そーゆー男子高校生になってみたいです。
かなり本気で、そう思うんです。
(笑うなら笑ってくれぇー!)




【プランその2・バンド編】もあるんですが、それはまぁよく考えてみたら、「私は男に生まれてスピッツみたいになりたい!」と言ってるだけのシロモノなので、書くまでもないでしょう・・・(苦笑)




とにかく!


私は、「歌を人生かけて歌う男子高校生」やってみたいのです!
この願いは、はたして遠い未来に叶うのでしょうか?(゚∀゚)



平成10年度NHK全国学校音楽コンクール 高等学校の部こーゆーの、むしょうにあこがれる・・・
青春だわ〜〜 青春よぉ〜〜〜







何度でも♥スピッツ


先月『CYCLE HIT』が発売されて以来、またまた私のスピッツへの熱狂が再燃してます。


以前はそれほどでもなかったのに、最近になって急に好きになった曲を繰り返し聴いてみたり・・・、長く自分にとって特別だった曲が、何年経っても胸にしみる存在であることを確かめてみたり・・・、とにかく要するに暇さえあれば聴きまくってるわけです^^;




スピッツがこれまでにリリースしてきたアルバムの中で、私が一番気に入っているのは何か?・・・と問われると、これはかなり難しい質問なんですが、あえて無理矢理に答えれば『ハチミツ』なんだろうなぁ〜
大ヒットした「ロビンソン」が入ってるアルバムですけど、「ロビンソン」以外の曲が、これにまったく引けをとらない完成度の高さで並んでいて、聴いててホントに楽しいですからね〜


でも、『ハチミツ』は確かに素晴らしいけれど、他も、スピッツのアルバムは、どれも聴き応えがあります。
クオリティーが高い・・・と、本気で思います。




これでも私は、子供の頃からクラシック音楽に浸かって生きてきたので、本来は筋金入りの「クラオタ(クラシック音楽おたく)」なわけです。
クラシック音楽を聴き込んでると、別に差別をするつもりはないんだけれども、たいていのポピュラー音楽は、暫くすると飽きてくるものなんですよね・・・
なにしろポピュラー音楽は、楽曲構造が単純なので、なんとなく先が読めちゃうんです。
その点クラシック音楽は、構造も和声進行も楽器編成も、何もかも複雑で、幅が広いからなぁ〜


でもね・・・スピッツは違いますね。


このバンドには、沢山の色があります。
一つ一つの曲に、個性的な別々の世界があります。
彼らでなきゃ実現しない多面的な表現があって、まるで万華鏡のような美しさを発散しています。
そして何より、「日本語」をこんなにも魅力的に綴るバンドが、他にあるでしょうか?




そんなスピッツも、メジャー・デビューして暫くは、売れなかったんですよね〜
デビューした頃から、草野さんが書く詩も曲も歌い方も、すでに今のクオリティーなんですけど、でも売れなかったんですよね・・・
しかも凄いことに、売れなくても、彼らは彼らのスタイルを、いっさい変えなかったんですよね。


デビュー・アルバムの『スピッツ』に、「うめぼし」って曲がありますけど、これなんか、今聴いても、本当の本当にいい曲。
第一声の「うめぼしたべた〜〜〜い」から、もうやられちゃった感じします。
あぁ・・・草野さん、あなたは天才よ・・。


その後のアルバム『名前をつけてやる』も、どの曲もシュールで好きだなぁ・・・。
オーロラになれなかった人のために』の中では、「田舎の生活」の拍の不思議さと穏やかな空気感がなんとも言えないし、『惑星のかけら』では、今聴くと「日なたの窓に憧れて」はメチャメチャいい曲だわ・・・。
そして『Crispy!』の中では「君だけを」ですよ〜〜 「題」はまるで少年隊みたいですけど、でもいい曲なんだわ・・・これ。


・・・で、5枚目のアルバム『空の飛び方』は、傑作です。
名曲「空も飛べるはず」もですけど、「不死身のビーナス」の素敵さときたらっ!

最低の君を忘れない
おもちゃの指輪もはずさない
不死身のビーナス
いつでも傷だらけ

なんでこんないい詩が書けるんだろう・・・
まいっちゃうよなぁ・・・


前述の『ハチミツ』はとばし、次にリリースした7枚目のアルバム『インディゴ地平線』も、私には特別な一枚です。
なにしろ「チェリー」が入ってる^^
でもアルバム表題にもなってる「インディゴ地平線」も素晴らしいです。
(注:ニューエイジャーがお好きな「インディゴ・チルドレン」とは無関係です。あたりまえだけど念のため!ヽ( ̄_ ̄*|||)

君と地平線まで 遠い記憶の場所へ
溜め息の後の インディゴ・ブルーの果て

つまづくふりをして そっと背中に触れた
切ない心を 噛んで飲み込むにがみ


8枚目の『フェイクファー』で好きなのは、「楓」です。
この曲は、聴くほどにいい曲。


9枚目の『ハヤブサ』は、たぶんこれが、私が普段一番聴いてるアルバムかもしれません。
全体的に気に入ってるんですよね〜 ハズレのないラインナップというか、どの曲もレヴェルが高いです。
特に「8823」は、始まりからいいです。

さよならできるか 隣り近所の心

・・・って、このフレーズ、最高だわ。
あと「ホタル」は名曲だと、しみじみ思います。


10枚目の『三日月ロック』では、「夜を駆ける」とか「ローテク・ロマンティカ」が好き。
この『三日月ロック』といい、最新アルバムの『スーベニア』といい、スピッツって、確実に進化を遂げていて、期待を絶対に裏切らないのが何より凄いです。




そうそう、こうした11枚のアルバムや、先月発売の『CYCLE HIT』には収録されてませんけど、「猫になりたい」って曲・・・。
好きです!
「猫になり〜た〜い」って、草野さんの歌声、可愛すぎるよっ



どーでもいいことですが、私が好きだなぁ〜好ましいなぁ〜と思う男性って、みんな「猫」好きなんですよね^^;
スピッツの草野さんもそうだし、先日記事にした画家の藤田嗣治もそう。
あと夫のセレフィカさんも、猫好きですよ〜


ちなみに私は、「猫」って、ぜーんぜん好きじゃないんですけどね^^
セレフィカさんに言わせると、「ゆうちゃんは猫にそっくり」なんだそうですが・・・


・・・と、結局はのろけて、今日も支離滅裂なままブログを書き終えてしまうのでありました〜o(*^▽^*)o




  スピッツ『CYCLE HIT』の試聴はコチラ

芸術家の繊細さについて


「繊細な芸術家」・・・というキーワードで、私の頭に浮かんでくる名前は、まず音楽家ならロマン派の作曲家のシューマンです。
美術方面だと、ご存知ゴッホとか、彫刻のカミーユ・クローデルでしょうかね〜


こうして並べると、三人とも精神を病んで自殺か自殺未遂をしている人ばかりですが・・・




シューマン・・・


彼は、とにかく硝子のように壊れやすい神経の人だったと思うんですよね。
同じロマン派の作曲家では、ショパンメンデルスゾーンなんかも、充分に繊細そうな顔立ちだし、作品も実にデリケートですけれど、でも、彼らの音楽に対しては、シューマンのような「ワレモノ注意」的な気難しさは感じられないんですよね。


とはいえ、私、シューマンの作品、大好きです。
だって、いかにもロマンチックじゃないですか!
親しみやすい「流浪の民」のような合唱曲や、「トロイメライ」などの有名なピアノ曲は勿論ですが、彼の真骨頂である歌曲の美しさときたら、素敵な歌手のいい声で演奏されると、心の底からウットリしますもんね〜
特に「詩人の恋」の、あの恨みがましさ、生真面目に未練たらたらウジウジ具合は、一度好きになると容易に抜けられない魅力を放ってます^^




画家のゴッホですが・・・


彼の作品を見ていると、こちらまで苦しくなることがあります。
草の一本、空気の流れの一筋、建物も、地面も、髪や肌も…画面の全てが、「ぼくを愛して欲しい」「ぼくを見て欲しい」と叫びながらうねっているようで、私などは、思わず後ずさりしそうに圧倒されてしまうんです。


ゴッホは、確かにきわめて繊細な精神の持ち主だったんでしょうが、その上に、愛に飢えていたんですよね・・・。
だから、ああいう表現で自分の飢餓感をあらわし、それが受け入れられないことで、ますます飢え、心が傷ついていく・・・という悪循環の果ての自殺だったわけで・・・




そして、彫刻家のカミーユ・クローデル・・・


カミーユは、非常に才能のある人でした。
師であり愛人であったロダンは、確かにあの時代の大巨匠でしたが、そうした彼の影に隠れてしまうには、あまりにも非凡な才能の持ち主でした。
だというのに、世間は、彼女をロダンの付属物程度にしか評価していない・・・と、カミーユは不満をつのらせていました。


また彼女は、類稀な美貌に恵まれていました。
その美しさにロダンも夢中になったわけです。
でも彼女は、ロダンを、その内縁の妻ローズ(平凡で無教養な女性です)から奪うことはできませんでした。


ロダンに捨てられたカミーユは、精神に異常をきたし、「ロダンが私の作品を奪いに来る」「私の生活を破壊する」といった妄想に囚われ、結局亡くなるまでの30年間を、精神病院に幽閉されて過ごします。




カミーユの作品を、パリのオルセー美術館ロダン美術館ではじめて見たとき、私は、涙が出そうになりました。
特に、一人の男性を、老女が若い女から奪っていくシーンを形造った作品には、胸がしめつけられました。
「私を捨てないで! 私を愛して!」と、その作品は叫び続けていました。
私は、「ロダンって、ヒドイ男だわ! サイテーの男だわっ!」・・・と憤慨し、こんな男性を愛し、執着したばかりに人生を狂わせた天才芸術家に激しく同情しました。


・・・でも今、私は、少し違った見方をしています。


ロダンが、なぜカミーユを捨てたのか・・・それが、分かるような気がするのです。
なぜなら、カミーユは、けっしてロダンを愛していたわけではないからなんですよね・・・。


彼女は、愛されたかったんです。
しかし、自分が望むようにロダンが愛してくれないことから、自尊心が傷つけられ、その傷を癒すためには、ロダンから愛されること以外は考えられず、でもそれが実現不可能であることから憎しみに転じたものの、尚まだ彼からの愛を求める・・・という感情の地獄を、ついに抜け出せなかったのです。



シューマンにしても、ほとんどストーカー的に執着して結婚したクララを、本当に愛していたか?・・・と問われると、それはどうかなぁ〜〜という気がしてならないんですよね・・・
シューマンって人は、常に自分が「愛されたくて」ならなかった人なんじゃないかと、思えて仕方がありません。


ゴッホだってそうです。
彼は、自分に徹底的に尽くしてくれた弟を、愛していたでしょうか?
感謝はしていたかもしれません。
でも、それもどうなんだろう・・・感謝する気持ち以上に、要求する気持ちの方が何倍も勝っていたんじゃないでしょうか。






「愛して欲しい」欲求が創作意欲に繫がっているアーティストは、よく「繊細」とか「純粋」といった評価を受けるような気がします。
そして、「愛して欲しい」人の魅力は、そこにあるのだとも言えます。


なぜなら、私達人間は、誰もが心のどこかに「愛して欲しい」という希求があるわけで、そうした感情を、美しく、時には痛ましく肥大化して聴かせてくれたり見せてくれる芸術に触れると、深い共感が生まれて、癒されるからです。
自分だけが苦しんでいるわけではないことを、そうした作品たちは教えてくれるし、心に寄り添ってくれるからです。




そんなわけで、私は思うんです。


シューマンゴッホカミーユも、「私を愛して欲しい」と訴える生涯を送り、その思いをひたすら表現した芸術家でしたが、結果として、その作品にふれた多くの人は、むしろそこから力や癒しを得ているのですから、彼らは、作品を通して、多くの人を「愛している」とも言えるのではないかと・・・。
既に今、彼らの作品は独り歩きをして、世界中で熱烈に愛されていますが、人々が愛するのは、作品そのものから何か大きな「愛」を感じるからだと思うのです。



そのように大転換を可能にするところが、真の才能に恵まれ、真に純粋で繊細な心をもった芸術家の、最高に素晴らしく羨ましい一面じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?




シューマン:詩人の恋

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カミーユ・クローデル [DVD]

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春爛漫


日曜日、東京から2時間近く電車に乗り、田園に住む知人を訪ねました。




東京では散りかけた桜も、そこでは今が盛りと満開。
枝垂桜も、くすだまをいくつも連ねたようにして、枝が優雅に揺れてました。
また、この寒さゆえなんでしょうねー、まるで北海道のように、あらゆる花が同時に開花したため、淡いソメイヨシノの向こうでは、濃い色の桃が咲き誇り、梅や梨の花も見え隠れする珍しさ。
菜の花やタンポポにまじる、イヌフグリの小さな青の絶妙の色合いといい、まさに春爛漫の華やかな景色でした。




そうした花の下、にょきにょきと命を突き出している「つくし」採りに、いつの間にか熱中してしまいました^^
あと「よもぎ」摘みもやりだすと止まらなくなり、これぞ文字通りの「道草」・・・




知人宅にて、それら採集した「つくし」「よもぎ」を天ぷらにして食べましたが、これがまた美味しかったのなんのって・・・
口の中いっぱいに、春が広がりました。




東京では、これから見ごろを迎えるのが八重桜ですね^^


私、桜の中では、実は「八重桜」が一番好きです。
青い葉と、ぽってりした八重の花のバランスが、とても華やかで、しかも健康的で、最高に綺麗だと思います。


嬉しいことに、私の職場には八重桜が何本か植わっているので、春は毎日眺めては、咲くまでの様子、満開への過程、そして散るまで・・・を見届けることができて、嬉しいのです。