ここがイヤなの心の道場
「心の道場」のヒーラーさんたちは、みな揃いの「白衣」を着ています。
私は、まず、それがイヤ。
なんで「白衣」を着なきゃいけないのか、それがわかりません。
「治療家」の雰囲気を出したいのかもしれませんが、なぜ、こういうところだけは「地上的」なイメージにこだわるんでしょう?
「白衣」には、医療のプロである人々の「権威の象徴」という側面もあります。
私たちは、「白衣」を見ただけで、なんとなく畏敬の念を持つ傾向があるわけで、そういう心理を利用して、薬局や眼鏡店の店員も、信頼性を増すために白衣を着ることがあります。
でも、常に「霊的視点」を標榜する心の道場の方々に、なぜそうした「演出」が必要なんでしょうか。
いや、別にいいんですけど・・・、ご勝手になさればいいことなんですけど・・・、私は、どーもイヤなんですよ。
イチャモンをつけたくなるんです。
次にイヤなもの。
はい、それは、彼らが使っている「言葉」です。
「霊主肉従」とか、「利他愛の実践」とか、「霊界の道具」&「道具意識」、「厳格な欲望抑制主義」とか、「高級霊の切実な願いに応えて、神の兵士に志願しましょう」とか、いろいろ・・・。
これらの言葉には、まるで戦時中のスローガンのような空気が充満しています。
少なくとも、私には、そう感じられるんだよね。
太平洋戦争中のスローガンも、今眼にすると、その陳腐さに笑ってしまうんですが、でも、この言葉を魂に刻み付けて死んでいった人々が数え切れないほどいたわけです。
例えば、「欲しがりません勝つまでは」、「贅沢は敵だ」、「日本人なら贅沢はできないはずだ」・・・といったところから、「七生報国」や「滅私奉公」あたりのスローガンは、そのまま心の道場さんのスローガンになっても、違和感がありませんよ。
あーほんと、私は、好きじゃないです。
「厳格な欲望抑制主義」・・・とやらが嫌いです!
それが出来なきゃ、「ほんもののスピリチュアリストではありませんよ」「非スピリチュアリストですよ」とでも言いたげな、その感じが、嫌いです。
「スピリチュアリズムは厳格な欲望抑制主義」なんて聞いただけで、ぞっとして、あ〜あ、そんなことなら、私はとっととスピリチュアリズムなんかとはオサラバしますよ〜〜と、椅子を蹴って帰りたくなります。
但し、ここで問題になるのは、心の道場さんが言うところのスピリチュアリズムが、はたして普通にスピリチュアリズムなのか?・・・ってことなんです。
そこら辺を、これからいろいろ吟味したり、直接心の道場さんに問いかけてみましょうよ・・・という気運が高まってきたことは、非常に喜ばしいことだと思います。
これまでは、心の道場さんが「いけすかない」と思っていても、自由にそれを口にすることが憚られるような雰囲気が濃厚にありましたけれど、一連の事件のお陰で、そうした不自然な空気も解けてきました。
これでこそ、理性と自律を尊ぶスピってもんです♪
イヤなものはイヤだ、好きなものは好きだ・・・と、言えることは大切ですよ!
正しいか間違ってるかなんて議論も結構ですが、人間には、好きか嫌いかも重要なんですよ。
道場さんが好きな人は、好きだと言えばいいんです。
うちのセレさんなんか、まだ言ってますよ、「好きだ」って(^^)
江原さんが好きなら、好きって言えばいいんですよ。
はい、そーですとも、私は結構好きですよ、江原さん。
・・・・・・そんなわけで、最後に槇原敬之(この人・・・実はセレさんに顔がそっくりなのだ^^)の『どんなときも。』の歌詞なんか、引用してみます〜
『どんなときも。』
作詞・作曲:槇原敬之
僕の背中は自分が 思うより正直かい?
誰かに聞かなきゃ 不安になってしまうよ
旅立つ僕の為に ちかったあの夢は
古ぼけた教室の すみにおきざりのまま
あの泥だらけのスニーカーじゃ
追い越せないのは
電車でも時間でもなく
僕かもしれないけど
どんなときもどんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち抱きしめてたい
どんなときもどんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること僕は知ってるから
(後略)